2013年6月30日日曜日

星のように輝く

聖書]フィリピ21217
[讃美歌]507、208,412、
[交読詩編]143:1~6、

昨年430日、北海教区総会が開かれました。開会礼拝の説教は、フィリピ21416をテキストに、《夜空に星があるように》と題されました。「私たちは星を見上げて歩いている」という言葉で始まった説教は、大変ポエティックで、文学的。よく調べ、構成した説教でした。平易であり、解りやすかった。まず良い評価を与えられるでしょう。「星は自ら光るのではなく、大きな光を反射する」と語り「神の光を反射する光の子として歩もう」と結ばれました。

 こうして他の牧師の説教を、その結語までご紹介すると、この後、私が話すことはないのではないか、と言いたくなります。

「私たち」は、この北海教区の一人びとりです。道内の大部分は、程度は違いますが、雪と氷の世界を経験することに違いはありません。私はまだ、ふた冬の経験でしかありませんが、夜空の星を見上げる経験はほとんどありません。すべる、転ぶ、倒れることが怖い、星よりも足元を大事に考えてきました。それが習慣になるのでしょうか。夏であっても、夜空を仰ぎ見ようとはしません。野に咲く花に道端に咲く花に、目を向けがちです。
また「星が降るように輝く北海道」と聞きますが、札幌もこの辺では、全く星は見えない。驚きました。考えました。札幌の街路灯は、覆いがついていない構造のため、空が明るくなり、見えないのでしょう。大気汚染とは違う型の環境問題です。しかし、道北大雪山系・黒岳は、星が降る様に見える、と聞きました。(層雲峡温泉)

観念的に夜空の星を考えていることが多く、現実の夜空の星を見ていない。

地上世界が、明るいと夜空の星は見えません。パウロの時代、そうしたことは、ほとんど起きなかったでしょう。ローマ帝国の軍団兵が、ガリヤ、ブリトゥン、ヒスパニア、ゲルマニア、アシア、エジプトなどを攻めた時、略奪、放火を伴うのが常でした。松明、炬火、篝火だけではありません。紀元64年、首都ローマが炎上した時も、周辺諸国を征服した時同様、地上は火の海となり、その光に、星はその輝きを失いました。これは、特例です。普通の時は、地上は暗黒に閉ざされ、夜空は輝く星でいっぱいになりました。夜道を急ぐ旅人は、星を見て方角をきめることが出来ました。

 現代では方角を決めるのは、ナビゲーション・システムです。人工衛星という名の眼には見えない星を使い、居場所を教えられ、方向、距離まで教えられます。

さて、このところで、パウロが語っていることの筋はなんでしょうか。聖書学者は、分かり易い箇所である、と言います。存外、難解に感じます。重要な言葉を辿ってみます。口語訳を使いました。

最初に語られているのは、私は、今あなた方と一緒にいない、と言うことです。パウロは、エフェソまたはローマの牢獄にいます。そこから、愛するフィリピの教会の人たちに語りかけます。

「いない今は、いっそう従順でいて、・・・自分の救いの達成に努めなさい」。

「その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」。

「すべてのことを、呟かず疑わないでしなさい」。

「それは曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである」。

『あなた方は、命のことばを堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。』

『このようにして、私の血をそそぐことがあっても、私は喜ぼう・・・』

珠玉のような言葉がきらめいています。それこそ星のように、と言いたいほどです。

最初に、これを読んだのは、大学生の頃、と記憶します。正直に言えば、その意味は分かりませんでした。それでも、良い言葉だなあ、と感服しました。以来、繰り返し読みました。そのうちに、分からなくてはならないのに分かっていない、読むほどに混迷の度合いが増すことにいらだち、離れて行きました。7・8年に一度くらい学ぼうとしましたが、面倒でした。今回も、久振りです。やはり不明点があるままです。考えなければなりません。

先ず、最初に触れられたパウロの在・不在は、フィリピの信徒たちに大きな影響を与えたことでしょう。パウロは、彼が不在であっても、信徒たちが恐れおののきつつ、神の臨在の中にあることを望んでいます。自分が、なお崇敬されることを願うなら、それは個人崇拝になるでしょう。母教会の恩師は、辞任後は、その教会の信徒との個人的な関係は、出来るだけ避けるものです、と教えてくれました。慕ってくれる人が居る、というのは気持ちの良いものだ、と思います。私のように人柄が悪く、無能な者には、そうした心配はありません。

モーセは、申命記3124325で、決別の辞を語ります。私がいなくなれば、イスラエルはもっと悪くなるに違いない。そのとき、律法に対して従順であれ、と告げています。

パウロが求めるのも従順です。自分が居ても、居なくても従順でいなさい。これを、パウロ個人への従順と考えることが多いようです。私は、そうは考えたくありません。

パウロの言葉、パウロの教え、パウロの指導に対し従順であれ、であるなら、それは個人崇拝になります。パウロは、115以下の宣教の動機に関する考察では、福音が語られているなら、何よりだ、と書きました。

 

パウロは、福音の言葉に対して従順であれ、と語っているのです。それだけが、救いを達成するからです。自分の救い、これなども長く問題になった言葉です。自分が、救いを生み出すことが出来る、と言えば、これはユダヤ教、律法の行いによる完成、となります。

キリスト・イエスが、十字架によって私たちに与えてくださった、罪からの解放という福音に対し従順であれ。Ⅰコリント11825「十字架のキリストを宣べ伝える。」

「達成に努める」達成はカテルガゼスタイン、完璧な成就や結末を意味する

従って、「途中でやめるな、半端にするな。救いの業があなたの中で完全に、決定的に達成されるまで進み続けなさい」と言うことであろう。

フィリピの信徒たちは、不在者パウロの苦しみと一体化することを通して、自分たちの苦しみ、更にイエスの苦しみをも理解することが出来ます。またパウロの来訪と言う事実を通してキリストの来臨を前もって経験することができるのです。

信徒たちは、終わりの時にパウロが誇ることのできるものを与える故に、パウロにも影響を及ぼしています。・・・こうして彼らは、真の意味で互いにおいて満たされたのです。信徒と牧者の関係は、決して、一方通行なものではありません。相互に関わり、互いに影響を及ぼすものです。

さて、ここでは、「働き」を表す言葉が、多く用いられています。その一つ、16節では、「労苦したことも無駄ではなかったと」と語ります。いかなる恵みの教えも人を労苦から解き放つものではあり得ないのです。大地の恵みも、その収穫にいたるまでには、どれほど大きな働きが、また細心の配慮が必要でしょうか。

「私は他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」Ⅰコリント1510、働き人は謙虚です。

パウロは、此処でもこれまで同様、他のもの(使徒たち)と自分のことを比較します。そこから、突然、方向を転じて、神の恵みです、と語ります。

 私たちは、考えさせられます。私たちの論議は、たいていの場合、あれかこれか、に終始します。終わりの見えない、果てしない論争になります。そうした時、第三の道があることを、パウロは教えます。

「働きかけ」、と「実現に至らせる」は共にエネルゲインです。これは神の行為の意味であり、その故に効果的行為をさします。それは半端にされず、完全に成し遂げられます。

地上の光を繁栄して夜空は明るくなり、星の輝きは見えません。それと引き換えに地上の人の心は、いよいよ暗くなっているのではないでしょうか。パウロが、星のように輝け、と言う時、眼には見えない心の闇を、夜空と言ったのに違いありません。生きる方角をきめる星となりなさい、これがパウロの言うところです。自分の義を誇るのではなく、十字架によって罪赦されたことを感謝し、共に喜ぶ、これこそパウロの喜びです。

他者の恐怖、不安、苦しみの上に成り立つ喜びは、私たちが喜ぶべき喜びではありません。私たちが喜ぶべき喜びは、共に喜ぶ者がいる喜びです。キリストの十字架が人を生かしたように、私たちの命も、人を生かすために用いられることを、喜びたいと思います。神は今も働いており、特に教会という存在を保持し続けていることを通して働き続けています。現代の私たちもこの手紙により、同じ命令を受けているのです。

2013年6月23日日曜日

キリストの讃歌

[ 聖書]フィリピ2111
[讃美歌]507,205,475、
[交読詩編]13313

昨日、カンボジアで開催された会議で、富士山が、世界文化遺産に決定しました。正式名称は《富士山―信仰の対象と芸術の源泉》。景勝地「三保の松原」を含みます。大変嬉しいことです。これを機会に、もっとその素晴らしさを知り、大事にして欲しい、と感じます。頂き物ですが、写真集があります。一冊は、娘が、「お父さんの好きな富士のすべてが分かるから」と言って、贈ってくれました。大阪に居て、富士を見られないのをあわれんだかもしれません。多くの芸術作品が掲載され、「芸術の源泉」であることが分かります。

もう一冊は、駿河療養所内神山教会の役員をしておられた伊藤秋夫さんの撮影した写真集です。こつこつと撮りためた作品です。療養所の方は、どなたも富士を特愛している、と感じます。宇佐美伸先生を始め、多くの方が写真を撮っておられました。何故か?

宇佐美先生が、三保の松原からの富士を写した作品は、讃美歌のしおりに使っています。先生は、ある日こんなことをおっしゃいました。「富士は、誰に対しても同じ顔を向けるんですよ」と。誤解に基づく偏見と差別に苦しんでこられた方の、深い言葉です。心に沁みました。此処は、富士山から遠くの地です。写真集をご覧いただければ幸いです。

 

さて、本日は、前回《へりくだり》の続きになります。へりくだって考えなさい。教会内で、互いに反目し、対立し、分裂しようとするフィリピの教会に対する勧告です。対立、分裂の起因を利己心や虚栄心と捉えました。そして、キリストの福音に相応しい教会を形成するためには、互いにへりくだることこそ、重要である、と勧めます。

 

そのへりくだり、謙遜の根拠を、キリスト・イエスに求めるのが、本日の聖句です。

この部分、611節は、当時の教会における『キリスト讃歌』の引用、と考えられています。これによって、勧告の根拠が深められます。手紙の中には、ずいぶん当時の信仰告白やキリスト賛歌の引用が見られます。

 

この記述の形式は、讃歌です。この見解は、エルンスト・ローマイヤーの論文(1927年)以来、広く受け入れられてきました。

キリスト論的讃美・告白は、パウロ文書において、決して珍しいものではありません。

異邦人のキリスト教会の礼拝(Ⅰコリント86、Ⅱコリント89、コロサイ11520

で使われていた共通の資料かもしれません。パウロが自分で作ったのではなく、他から引用しているとしても、「十字架の死に至るまで」(8節)という句はパウロ自身が付け加えた可能性が高い、と考えられます。

 

8節、「謙遜・へりくだり」は、タペイノオー、低くする、平らにする、貧しくする、謙遜にする、心を低くする、という意味です。十字架のキリストの姿を、謙遜の典型と、捉えています。ある学者は、こんなことを書いています。

 

「キリストは、報われるという約束なしに自身をむなしくし、仕え、死したことが明らかになる。キリストの行為に関する異常な事実は、十字架においてはっきりと未来が閉じられたことである。

キリストは、勝利の見込みなしに、我々のために働いてくださった。これこそが神が称賛し、支持する行いである。利益を求めず、報われることを願わず、自己を否定して死に至るまで他人のために仕えることこそが。」(クラドック、p82)

 

 私たちに、明らかになることは、パウロは利己心に満ちた眼、尊大な精神、お世辞を求める耳、何も語らない口、他人を受け入れる余地の乏しい心、自分にのみ仕える手は、キリストのからだに相応しくないと見なしていた、ということです。

 パウロは、ひとり一人が自分に対して責任を持ち、それぞれの重荷を担う(ガラテヤ645)という意味での個人主義に反対していたのではありません。

 自分のことを考える態度が、他人の重荷を担うことから遠ざかること、福音における協力関係を拒絶すること、喜びを共にしないこと、苦しみの中にいる人に無関心であること、互いに手足となるという生活態度に対して冷淡であることを意味するのであれば、そのような個人主義は共同体にとって有害であり、徹底的に他人に仕える者であられたイエスを讃美し、これについて語る福音と矛盾します。(クラドック、p76

 

パウロは、キリストこそ、十字架の死に至るまで従順であり、徹底的に謙遜であられた、と語ります。だから、文語訳「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」となるのでしょう。

 

 見せ掛けだけの謙遜は、比類のない傲慢である、と言わざるを得ません。

キリスト讃歌は、実にキリストの謙卑を称えるものです。

キリストは、ご自身が神の御子であることを放棄して、罪人の低さにまで下ってこられました。罪を他にして、全く一人の人間でした。ヘブライ415が語ります。

  「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練にあわれたのです。」p405

 

こうした謙遜は、キリストにおいて、突然顕われたことではありません。幾たびか、顕われています。顕著な例を挙げましょう。旧約聖書には神が、人間と契約を結ばれることが記されています。この契約を考えてください。族長ノアと結ばれる虹の契約、預言者エレミヤの新しい契約、いろいろ挙げることができます。

いずれも神が人と結ばれたものです。そのためには大事な条件があります。契約の前提条件、というべきでしょう。それは、対等な人格関係、ということです。私たちの社会で認められる契約を考えてみてください。人間関係には上下がつき物でした。そこでは、命令や、言い渡しなどが普通でした。社会の中で、対等な関係を構築するようになって、契約が成立するようになりました。対等な人格関係が、契約の前提条件です。

そこで問題です。創造主なる神と、その被造物である人間とは対等でしょうか。

 

16日午後の《み言葉を学ぶ会》でお話したことを繰り返しましょう。

契約、その語源はヘブル、アッシリアなどでは、束縛、拘束です。

通常、契約は対等な人格の間で結ばれます。双務契約、片務契約。

当事者である二者が合意の上で、ある約束を守るために互いに束縛される関係に入ることが、契約です。神と、その被造物である人間とは、対等な人格を有する、と言えるでしょうか。造物主と被造物とは、決して対等ではありません。被造物は、造物主の高みに昇ることは出来ません。主が、被造世界の低みにまで降下することはできます。

契約は、神が人間を救済する計画のもとで、欠くことのできない手段となりました。聖書に現れる契約は、神が人間に恵を与えるためにご自分を拘束されることです。ご自分を拘束してまで人間に恵を与えようとされます。ここに福音があります。

 

キリストの謙遜は、単なる美徳ではありません。福音そのものなのです。

文語訳は「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。すなわち彼は神の形にて居たまいしが、神と等しくあることを固く保たんとは思わず、かえつて己をむなしうし僕の形をとりて人のごとくなれり。」

 

キリストの謙遜は、ご自分が本来持っておられる権利、権限すら放棄するものでした。

前回、私たちは、自分の本当の姿を、そのままに認めることが謙遜である、と考えました。

パウロは、キリスト讃歌を引用して、それを乗り越えることを語っています。

教会をひとつの教会にするものは、人間的な力や思いではなく、キリストにある、という思いです。エン トー クリストー、かつてはキリストにあって、と訳されました。そのほとんどを、新共同訳は、キリストに結ばれて、と訳すようになりました。動的な関係が理解されるでしょう。命が流れ込んでいる、と言えます。

 

私たちが、キリストに結ばれて、キリストのからだである教会を形成しようとするなら、キリストの謙遜を学び、倣うことが必要です。自分の当然と考えられる権利、権限も主張しない、保持しようとしない、と言うことです。私は、この歳になって、まだまだと感じます。同じ顔を向けることが出来ていません。自分を守る意識が強いのでしょう。

キリスト教会には、優秀な人、有能な人、立派な経歴の人が多くおられます。他の誰にも負けない、強い人も、負けず嫌いも居ます。それは認められます。しかし、それを利己心、虚栄、野心にしてはなりません。

キリストの教会が、福音信仰によって一つになるためには、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、互いに仕えあう者となるのです。

2013年6月16日日曜日

へりくだって考える

[聖  書]フィリピ2111
[讃 美 歌]507,280,474,78、
[交読詩編]14:1~7、

 このところで、パウロは教会内部の対立、分争を心配し、助言・勧告しています。
私たちが、この手紙の中から知ることのできる対立は、二種あります。

第一は32以下の、あの犬どもに関わるものです。ひどい呼び方ですが、それだけ厳しい対立であり、戦いだったのでしょう。
パウロがかつて属していた、ファリサイの仲間たちです。パウロを裏切り者として追及し続けます。個人にとどまらず、その活動、その結実である集団も狙いました。
彼らは、自分たちこそ真理を担う者である、と確信しています。

 第二は、42以下に見られます。エポディアとシンティケの仲違いです。かつては、パウロの働きを、力を合わせて助けてくれた。共に闘ってくれた人たちが、離れ離れになっている。このためにパウロは、フィリピの教会の指導者にも、この二人を支えてあげて欲しい、と語ります。「主に結ばれて、同じ思いになるように」支えることが求められます。

他の手紙の中からも知ることができます。

 ひとつは、ガラテヤ16以下に見られるものです。これは、「はかの福音に乗り換えようとしている」。これは、キリストの福音を覆そうとしているだけのものであり、決して別の福音があるわけではない、とも語ります。これは、信仰による救いを退け、律法の行いによる自分の義を語る者たちのようです。

 もう一つ、よく知られるものがあります。Ⅰコリント33以下に見られます。
「お互いの間に妬みや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」
そして4節で、その中身を明らかにします。
「ある人が『私はパウロにつく』と言い、他の人が『私はアポロに』などと言っているとすれば、あなた方は、ただの人に過ぎないではありませんか。」
 この分裂と対立は、真理問題によらず、主要な人物を頭領と仰ぐ勢力争いです。今日でも良く見られる分派・分争です。対立と抗争
これに対するパウロの指導は、明確です。パウロもアポロも、共に神のために力を合わせて働く者です。あなたがたは、神の畑であり、神の建物です。パウロもアポロも、神に委ねられて、この畑、建物のために働いているだけです。

 フィリピ、ガラテヤ、コリント、三教会で、内部に対立があることを観ました。
このほかにも多くの教会で起こっていたことでしょう。現代の教会を考えれば、内部の主導権争いが大きいものと考えられます。その場合でも、教会の争いはみっともない、と考える人たちですから、勢力争いが隠されて、真理問題であるかのように、表面を繕います。

 フィリピ教会内部の争いは、どうやら、お互いの間の感情的な対立、離反だったように感じられます。信仰内容の違いであれば、後の時代の改革派のように分離、独立ということになるでしょう。此処では、そのような動きは感じられません。むしろ、お互いの間の意思疎通が問題となっています。コリント教会やフィリピ教会は特にこの感情問題に注意が喚起させられています。


1節、    あなた方は、フィリピの教会の人たち。これは良し。
次は、キリストによる励まし。ティス パラクレーシス エン クリストー。異訳「キリストに在っての勧告」は、パウロがフィリピの人たちに与えたもの。その事に意味があるならば、ということになります。パウロがかつて為した勧告に意味があるなら、でしょうか。ティスは、言葉の意味を緩和する役割があります。「というようなもの」と訳します。

それに続くのは、愛の慰め。ティス パラムシオン アガペース。これも、信者相互のものとするよりも、パウロが与えた神の愛の言葉、決して人間相互の愛ではありません。

三番目は、霊による交わりです。ティス コイノーニア プニューマトス。御霊に与ること。御霊との交わり、御霊による信者相互の交わり、あるいは信者とパウロとの交わりの意味にも取れます。こうして、御子キリスト、父なる神、そして霊。三位一体の神を表現していることになります。

パウロは、心に溢れる思いを、多くの言葉に換えて、語ります。
あなた方が、神の愛によって作りかえられ、新しい生き方を進めているなら、他の人を思いやり、一つ思いとなって、私の喜びを満たしてくれるでしょう。

 何故、対立が生まれたのだろうか、パウロは考えています。
利己心、虚栄心、傲慢。要するに、自分だけが大事で、他の人のことには無関心。
「愛の反対語は何でしょうか」、憎しみ、嫌悪、拒絶、色々言いたくなります。
マザー・テレサは言います。「愛の対極の言葉は、無関心です。」
日本で、アジアで、アフリカで、世界中で、どれほど多くの人が、子どもたちが、誰にも面倒を見てもらえず、配慮されることもなく、孤独の中に放置されていることか。
 この世界の中で、自分の欲求が満たされ、満足している人たちがいます。幸せな人たちです。いろいろなレベルがあります。事情があります。充足し、満足できることは、大変幸せなことです。・・・そうです、この、私の幸せは、自分ひとりのためなのでしょうか。
分かち合うことは出来ないのでしょうか。

 他の人たち、自分とは違う人たちのことを考える。思いやる。配慮する。
自分のことだけを考える人は、どれほどたくさんの友人がいても、孤独になります。
他の人のために生きるなら、周囲に友人がいなくても、孤独ではありません。神が友です。
パウロは、ともに心を合わせ、力を合わせる生き方のために、へりくだることを語ります。

謙り、謙遜、これは日本社会の徳目のひとつに数えられています。古くから、傲慢でなく謙遜に、と教えられました。「目立とうは駄目、控えめに」。戦後、日本社会は、戦勝国である米国を受け入れ、すっかりアメリカナイズされました。競争社会・アメリカの人たちは、事毎に自分自身をアピールします。
変化した社会、人の心。そうでありながら、昔ながらの言葉、徳目は残りました。そこで言われるようになったのが、『謙遜の悪徳』という言葉です。美徳のはずであった、謙遜を、現代社会の中で実行すると、それが悪徳に変化している、ということのようです。
心にもないへりくだりを口にする。
パウロにとって謙遜とは、何を意味するのでしょうか。
父・子・聖霊の神から来る励まし、慰め、交わりが、あなた方の中にあるなら、ひとつ思いになり、私の喜びを満たして欲しい、と願っています。自分の利益、自分が称賛されることを求めず、他の者を自分より優れた者と考えるように、と勧めます。ここにパウロの謙遜があります。それぞれ、自分に関する真実を認めましょうよ、ということです。

 パウロは、当時のユダヤで、一流の人格です。血筋からは、ベニヤミン族。これはイスラエル初代の王サウルの同族です。ユダヤ社会で誰からも愛され、尊敬されていた律法学者ガマリエルの弟子でした。その上彼は、生まれながらに、ローマ帝国の市民権を持っていました。ユダヤ人もローマ人も、彼には手出しすることを躊躇するほどの地位、身分にありました。多くの人の上に立つべき者として認められていました。

 そのパウロが、自分自身をどのように表現したか。Ⅰテモテ115
『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私はその罪人の中で最たるものです。(新共同訳)

キリスト・イエス罪人(つみびと)を救(すく)はん爲(ため)に世()に來(きた)り給(たま)へり』とは、信(しん)ずべく正(ただ)しく受()くべき言(ことば)なり、其()の罪人(つみびと)の中(なか)にて我(われ)は首(かしら)なり。(文語訳)

「罪人のかしらなり」、これこそパウロの自己認識、自己表現です。罪に悩みつつ、罪の赦しを確信しています。

謙遜である、とは真の自分自身の姿を認めることです。赦された罪人であることを認めましょう。そのとき、私たちは、互いに赦された罪人として、生きることが出来ます。

2013年6月9日日曜日

共に戦う者


[聖書]フィリピ12130
[讃美歌]507,206,412、
[交読詩編]67:2~6、

前回は、パウロの板ばさみ状態について考えました。かつて、忠君愛国の思想が幅を利かせていた時代がありました。教育勅語と戦陣訓の頃です。国のため、その命差し出しなさい、と教えます。同時に親には孝養を尽くしなさい、と言います。命ながらえることが求められます。国に中であることが、親に対する孝である、と単純化しました。教える側はそう語ることが出来ても指導される側では、大変大きな相克があったに違いありません。政治が板ばさみ状態を生み出しました。

板ばさみも、生きるか死ぬか、と言ってしまうと、シェイクスピアーの『ハムレット』の有名なせりふを思い出します。

To beor not to bethat is the question

「あるべきか、あるべきでないか、問題はそれだ。」

生きるべきか、生きるにあらざるか、それが問題だ。生きるか死ぬか、それを悩むのさ。

坪内逍遥、福田恒存は、Be  を存在よりも生存の意味にとって翻訳しました。

最近は、存在の意味に近く訳す傾向が強いようです。シェイクスピアーの意図はどこにあったのでしょうか。続くセリフ、舞台の様子は、どうやら、どのように生きるか、という意味、と考えられます。

 

ある意味でこれは「個」の確立と言えるでしょう。

 

サッカーの日本代表チームが、W杯ブラジル大会出場を決めました。アジア地区のライバル、オーストラリアと対戦。1点を追いかけ、アディショナルタイム、本田選手の蹴ったボールは、相手チームのハンドの反則。ペナルティエリア内のため、PKが与えられました。彼はど真ん中へ覚悟の一蹴。見事決まりました。

監督、選手、スタッフ全体への記者会見での、PKをきめた本田圭祐選手の発言が注目されています。同席している年長の先輩選手の名前を挙げて、言いました。

『今のままならアジアではよいけれど、世界レベルのプレーヤー、チームになるには、それぞれの長所をもっとレベルアップしなければならない。チームワークは我々皆が持っているもの。これからは、もっと個を確立して、世界レベルにならなければならない。』

 

これは、ブラジルW杯で強豪に伍して戦うチーム作りへの提言だと思います。個々人の技術を確立する、そして自信を持ってその役割を果たすことを求めたものでしょう。最終の場面で、PKをもぎ取り、ボールを手にキックの場に歩み寄る本田選手。

「俺が、此処で決めるんだ。」という決意を感じた方々も多かったのではないでしょうか。

ぶれることのない、個の確立を見たように感じました。共に闘うために、必要なことです。

 

 逆に考えて欲しい。共に闘うことができない、とすれば何があるか。自分のほうが偉いんだぞ、と考え、それを証明しようとしたら、てんでんばらばらになる。ひとつ心にはなれない。他の人は、自分を称賛するための存在、道具。

自分を、ではなく、神様を讃美する時、心はひとつになれる。これが、生まれ出た教会。

自分はあれも出来る、これも出来る。あいつは、お前は何も出来ないだろう。ダメな奴。

学歴社会、能力社会、技術万能社会、資格社会、

 

クリスチャンである、と言い、それを誇る人。確かに、立派なクリスチャンがたくさんおられます。社会的にも地位の高い人が少なくありません。経済的にも、資産を持ち、余裕のある生活をしている方も多くおられます。

しかし、それらと愛され、尊敬されることとが結びつかないのは何故でしょうか。

クリスチャンは敬して遠避けられれてはいないでしょうか。敬遠される。

 

あれこれと自分自身を自慢する人、有能な方であることは分かります。

これでは、一緒に、ひとつ心で祈り、闘うことは出来ません。

かみそりと一緒にいるようなものです。こちらの心が休まりません。

出来る人の傍に居ると、お前は何も成果を上げていないじゃないか、と責められるように感じるのは、当方の無能さの故でしょうか。頭悪いからなア

かみそりのように鋭利なものは、むき出しのまま他のものと一緒にすることはしません。

必ず、他のものを傷つけるからです。そのかみそりの意志には関係がありません。たとえ善意の塊であっても。むしろ善意であればあるほど怖い、と言えるでしょう。

 

27節以下は、「キリストの福音に相応しく生活しなさい」という勧告です。

さまざまな時に「らしさ」とか、「相応しさ」が問題になります。大人らしく、子どもに相応しい服装、年齢、職業、地位、身分、性別その他、それぞれに相応しさがあるように言われます。しかし、本当に相応しい、とはどのようなものでしょうか。

若い日に、教えられたことがあります。福音に相応しい食事の仕方がある。あるいは、お店の暖簾をくぐるときは、財布に手を置いてお祈りしてから決めなさい。

他の人に行き渡っているかどうか、確認してから箸を取ること。無駄遣いをしないこと。

50年以上経過すると、さまざまな変化があります。形は変化しても、どこかで守っています。何事であれ、喜びと感謝にあふれた態度、姿勢が、福音に相応しいものだ、と感じています。

 

「ひとつの霊により、心を合わせて福音のために共に戦う。」

パウロは、フィリピの教会の人たちが、この戦いにおいて現在進行形であると語ります。善意と妬みという二つの動機があれば、決して心はひとつではありません。読み進むとわかりますが、愛するフィリピの教会ですが、決して一枚岩ではありません。そのような状態を、パウロは大変心配しています。

 

福音の信仰のための戦い、此処にも二つの姿が浮かび上がってきます。ひとつは福音信仰を守る戦いです。キリストの十字架と甦りによる救いの福音を伝えたのはパウロです。パウロがいない今、あの律法主義者が入ってきて、律法の行いこそイスラエルの救いである、と教えます。彼らに対抗して闘いましょう、と勧めます。

 

他方、福音を伝えて行く戦いがあります。この時代、それは地道に語り伝えることでした。福井二郎、という牧師さんがおられました。戦前、中国人伝道に励まれました。敗戦により帰国され奄美大島?で伝道。その後、池袋西教会の牧師をされました。その頃,神学校の卒業クラスの特別授業にこられました。

「任地へ着いたら、同じ時間に同じことをするとよろしい。村の人たちが、行動に関心・疑問を持ち、質問してくれるから、話せるようになりますよ。」

先生は、大陸でも、奄美でも毎日、同じ時間に、同じコースで杖を引かれたそうです。

これが、福井先生の、福音のための戦いでした。

 

共に戦う者は『戦友』です。忘れがたいことがあります。

晩年の父との会話です。その日、父は奥の部屋のいつもの席ではなく、隣の部屋、茶の間で寛いでいました。

「行人君、君が信じているのだから、私もキリスト教になってよい、と思ったけど、教会は、靖国反対なんだろう。僕は、戦友と靖国で会おう、と約束したんだよ。」

驚きました。改宗することを考えていたことに。

すでに死んだ戦友との約束を、今でも大事に守ろうとしていることに。

私たちは、パウロによってこの深い絆に招かれ、結ばれているのです。

 

このところは、最後に29節が記されます。

「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」

パウロは、今ローマ帝国の牢獄に捕らわれています。まさにキリストのための苦しみです。彼は、それをなんでもないことのようには言いません。率直に苦しみである、と認めます。

ただ、これもまた、神の恵みである、といいます。

苦難は、それに耐える力を持っている人に与えられます。試みは、それを乗り越える力を有する人が受けることが出来ます。試みに遭い、苦しむ時、自らに言いましょう。

お前は、それに耐える力を与えられたのだよ。その恵みに相応しい者とされたのだよ。

さあ感謝しよう。讃美しよう、と。

2013年6月2日日曜日

生きるとはキリスト


[聖書]フィリピ12130
[讃美歌]讃美歌21;507,492,521
[交読詩編]21:1~11、


これまでの説教者としての生活で、私は何回もこのフィリピの信徒への手紙を取り上げてきました。

それ以外にも通読しています。聖書を読むようになったのが1958年を過ぎた頃でしょう。それだけでも55年、神学校を出てからでも45年。注解書もずいぶん購入しました。全部を読んで研究したわけではありません。それでも、必要と思われる所には目を通しました。前の説教や聖書研究の原稿には目を通しませんでした。

今回、説教を始めて、これまでとは違うものが、この中にあることを感じています。

ピリピ書、と言えば、獄中書簡、喜びの手紙、感謝の書、で良かった。迷うことなく、その線で説教することが出来た。ところが今回は、そうは行かない。伝統的な緒論に変わりはないが、それだけでは済まされないものが見えてくるのです。

 

 創世記でも、感じたことです。すでに書物などでも指摘されていた問題を、自分では感じていなかった、考えていなかったのです。聖書や注解書の読み方が浅かったのでしょう。

あるいは理解度が浅く、理解していなかったのかもしれません。頭が悪い、と言えば簡単でありながら正確な分析になるでしょう。

 

 もっと早くに気付いているべきだったのでしょう。獄中書簡ということと、喜び・感謝の手紙ということの間には、本来直接的には結びつかないものが存在しているのではないでしょうか。若い頃、何も気付かなかったわけではありません。簡単に言えば、獄にある、監禁されている、パウロにとって不都合な状況からは,喜び・感謝という感情は、直接的には生まれてきません。人間にとって、その生と死は解決のない問題かもしれません。

高校時代、人間の生と死に対する問題解決を課題とする文学、と言う考えを持ちました。

その頃の国文教師と話をすればよかった、と振り返ります。

 

前回は、《動機は愛か欲か》と題してお話しました。愛を動機とすることが大事、とパウロは語っている、と思っていました。ところが、二つのどちらであっても構わない、キリストが伝えられているのだから、と言うのがパウロの考えでした。二つのどちらかではなくて、第三の考えがある、と言っています。 結局パウロは、この世界のためには、今、キリストが伝えられることが、何よりも大切だ、と言います。

 

18節の喜びは、すでに起こった事柄を思い起こしてそうしているのです。19節の喜びは、将来に向けて1926節に述べる未だ確定していない出来事を予想しながら語られている、と考えられます。

パウロは過去の出来事を喜ぶだけでなく、将来の出来事をも喜ぶことができるのです。そして、キリストが告げ知らされるなら、過去、現在、将来のいつであっても喜ぶでしょう、と語っています。

 

1923節は、監禁が、パウロに及ぼす影響について語る。

2226節は、監禁がフィリピ教会に及ぼす影響について語る。

2223節は、両方にかかっている。

 

この箇所は、なかなか理解が困難な箇所です。文意をたどり難いとも言われます。

確信と不安、決意と優柔不断、死への願望と生への願望が入り混じっていることが読みとらるでしょう。パウロは激しい精神的な矛盾にさいなまれています。

パウロは外的にも、内的・精神的にも板ばさみの状況に置かれています。

23節、『私は、板挟みの状態です』。口語訳も「板ばさみになっている」となっています。英語聖書はいろいろに訳しています(和訳文で失礼)。

『私は二つの方向に引き裂かれている』NEB  New English Version 1970

  ケンブリッジ、オクスフォード両大学を中心に解かり易く,格調ある英文を求める。

私も買い求めて、時々使います。解かり易く、綺麗な感じです。

『私は両側から捕まえられている』。TEV  Today’s English Version 1976

good news bible、新時代の訳語

 

その他の英訳聖書  

KJVKing James Version)ジェームス王欽定訳1611

 NKJVNew king James Version)改定欽定訳1982

 RSVRevised Standard Version)改定標準訳1952

 NRSV New Revised Standard Version 1990,新旧両教会用

 NJBNew Jerusalem Bible)カトリック訳・エルサレム聖書、1966年,改定1985年、

 

 

この部分は、パウロの手紙の中でもかなり難渋なもの。何を、語ろうとしているのだろうか。

パウロの主な主張は、20節、私の身によって、その生死にかかわらず、キリストが崇められること。それ以外のことではありません。それに続いて21節は、多くの翻訳は、「というのは、なぜなら」で始めます。英語ではforに相当するガルを訳したものです。新共同訳は、訳していません。不要な一語と判断したのでしょうか。新しい翻訳理論に基づいている、と感じます。「単語の変換ではない。文章全体が意味する所を訳出する。」

 

19節「というのは、あなた方の祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことが私の救いになると知っているからです。」

21節、「(なぜなら)わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

 

青年の頃、これを読み、心惹かれるものを感じました。しかし、此処には不明確、不可解な感じも残ります。すっきりしない、ものがある。今、読んでも同じです。確かに心が惹かれるけれど、分からない、説明できない

パウロは、常にキリストのものです。

「生きていても死んでいても」(ローマ148)、

「目覚めていても眠っていても」(Ⅰテサロニケ510)、

 

生きるとは、キリストを生きること。21節、ト ゼーン クリストス(補エスティン。)

パウロにとって生はキリストのためである、という意味か、または、パウロにおいてはキリストが彼の中に生きておられる、彼はキリストとの密接な結合関係に生きている、という意味でしょう。どちらの考えも、パウロ自身の言葉に基づきます。

 

ガラテヤ220、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。」

Ⅱコリント41016515、「そのひとりの方はすべての方のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 

死ぬことは利益なのです。迫害と殉教の時代にあっては、死ぬことは、勝利、と言いたいことでしょう。そこを、あえて利益といいます。

死は、屈辱と苦しみに別れを告げ、主の栄光に与るときでした。

キリストにある死は、キリストの甦りに与る勝利の時です。

 

「死は利益である」という言葉は、何を示すのでしょうか。この世を去って、キリストと共にいることです。この喜びを得ることを、一方では切望しています。

生きるとはキリスト、22節の、肉において生き続け、実り多い働きを指している、と考えます。更に24節の「あなた方のための必要を満たす」ことができるのも、パウロにとっては利益です。そして25節、「喜びをもたらすよう」あなた方一同と共にいることになる。

 

ヨハネ黙示録18、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである。』」

ギリシャ語では、アルファベットの最初が、アルファで、最後がオメガです。

古くは、この箇所を『始めであり、終わりである』と訳していました。

おおよそすべての事柄の第一原因であり、そのきっかけであり、その収め所である、ということです。

 

どちらを選べばよいのか分からない、という悩み。これは、パウロがローマ書7章で、丁寧に論述していることです。

ローマ715、「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・19節、わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

 

 

生きるとは、キリストを生きること

パウロは自分の生と死を考えました。どちらを選ぶべきか、悩みます。とはいうものの、彼にとっては、楽しい、そして喜びへの道でした。

そして自分にとって利益にならないことでも、教会の人々の信仰を深め、喜びをもたらすことを選び取るのです(25節)。これこそキリストを生きることです。

 

板ばさみになったとき、パウロは自分の利得ではなく、キリストが伝えられること、教会の信仰の喜びを選び取ります。あれかこれかではありません。あれもこれも、でもありません。いつでも人々が、キリストに結びつくことを求めます。そして喜びます。