2013年9月22日日曜日

人間は何ものか

[詩編]8110
[讃美歌21]6,37,300、
[交読詩編]90:13~17、

この詩8篇は、創世記126以下との関係が認められています。だから創世記以後に詩8が作られた,ということではありません。以後か以前か、どちらであってもおかしくないし、どちらの可能性もある、と言えます。
先ず創造者の栄光と力に相応しい畏敬と讃美を表現します。そこには驚きが聞こえてきます。詩人は、神の威光が幼子と乳飲み子の口によって讃美されるから驚いています。
神の栄光を讃美するのにふさわしいものは誰でしょうか。
讃美は直き者に相応しい。詩篇331
乳飲み子たちの口に讃美を備えられた。マタイ2116

この詩人は、讃美は行い済ました敬虔な者たちがなすこと、と考えていたのでしょう。
詩人は、幼子、乳飲み子が讃美する、と聞いてびっくりしました。しかし考えました。世の波風に洗われる前の幼子、乳飲み子のほうが、讃美に相応しいのではないか、と。
 旧約ではモーセ、サムエル。新約では嬰児イエスなどが考えられます。

人は何者か、という問い。これは、真理とは何か、という問いと同様古くからあるものです。ユダヤの宗教の課題として読みますが、ギリシャ・ローマの哲学の主題であり、近代の文学・芸術のテーマにもなっています。そうした試みの一つを御紹介しましょう。

『葉っぱのフレディ』レオ・バスカーリア作Leo F Buscaglia
大きな木の太い枝に生まれた、葉っぱのフレディのおはなし。
春に生まれたフレディは、数えきれないほどの葉っぱにとりまかれていました。はじめは、葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが、やがてひとつとして同じ葉っぱはないことに気がつきます。
フレディは親友で物知りのダニエルから、いろいろなことを教わります。自分達が木の葉っぱだということ、めぐりめぐる季節のこと...
フレディは夏の間、気持ちよく、楽しく過ごしました。遅くまで遊んだり、人間のために涼しい木陰をつくってあげたり。
秋が来ると、緑色の葉っぱたちは一気に紅葉しました。みなそれぞれ違う色に色づいていきます。

そして冬。とうとう葉っぱが死ぬときがきます。
死ぬとはどういうことなのか...ダニエルはフレディに、いのちについて説きます。

いつまでもここに居たいというフレディでした。ダニエルが「引越し」といった言葉の意味が「死ぬ」ことではないのかと気づきます。フレディは死ぬことが怖くてたまらないとダニエルに訴えます。ダニエルは優しくフレディに話しかけます。
「いつかは死ぬさ。でも”いのち”は永遠に生きているのだよ。」

「まだ経験したことがないことは こわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。
変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるとき こわかったかい? 緑から紅葉するとき こわくなかったろう? ぼくたちも変化しつづけているんだ。 死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。」フレディは自分が生きてきた意味について考えます。「ねえダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」
そしてダニエルも静かに枝を離れて引っ越していきました。
最後の葉っぱとなったフレディは、地面に降り、ねむりにつきます。

「死」について考える作品です。フレディとダニエルの会話を通じて、生きるとはどういうことか、死とはなにかを考えさせられます。「死ぬということも 変わることの一つなのだよ」というダニエルの言葉に、著者の哲学が込められているようです。

レオ・ブスカーリアLeo F Buscaglia1924331 1998612日)は、アメリカ合衆国の教育学者。いのちについての学び方を教える絵本『葉っぱのフレディ』で世界的に知られている。

彼は、イタリア系移民の家族の末子として生まれ、南カリフォルニア大学で教育学を学び、卒業後はパサディナ市の公立学校教員となり、現場の教師時代は主に学習障害の子どもたちのクラスを担当した。同時に大学院にも在籍し、教育学の博士号を取得の後、母校に戻り、同大学で教鞭を採った。教え子の自殺という事件に遭遇し、以後、いのちの教育、いのちのかけがえのなさ、人を愛することなどに関心を抱くようになり、「ラブ・クラス」(Love 1A)という単位の出ないゼミを主催。このゼミでの演習成果から、最初の著書『LOVE(1972)が生まれた。
彼は心臓発作で1998611日ネバダ州のタホ湖に近い彼の自宅で逝去。74歳でした。

この絵本に大傾倒したのが、日野原重明先生です。この方は、ホーリネス系で教団の教会の牧師の家庭にお生まれです。聖路加記念病院院長,その他多くの活躍をしておられます。すでに100歳を幾つもこえておられます。葉っぱのフレディをミュージカルにしよう。
続編のような本を造られました。その初めのほうか、その辺に、ゴーギャンの有名な絵を飾りました。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1898

ゴーギャンは、故郷のフランスよりも素朴で単純な生活を求めて1891年にタヒチに渡りました。キャプテン・クックの航海記により知られるようになるこの島も、その後ヨーロッパ人たちによって変化させられます。特に宣教師たちによって文明化され、倫理化されてしまいました。二度目のタヒチ滞在時代の1897年から1898年に描き上げたこの作品は、高度に独自の様式化された神話の世界を描いた他の作品と同様にゴーギャンの代表作とされており、もっともゴーギャンの精神世界を描き出している作品と言われています。アメリカのボストン美術館ご自慢の収蔵品です。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を描き上げた後に自殺を決意していたゴーギャンは(自殺は未遂に終わる)、この作品に様々な意味を持たせました。絵画の右から左へと描かれている3つの人物群像がこの作品の題名を表しています。画面右側の子供と共に描かれている3人の人物は人生の始まりを、中央の人物たちは成年期をそれぞれ意味し、左側の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」であり、老女の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」とゴーギャン自身が書き残しています。背景の青い像は恐らく「超越者 (the Beyond)」として描かれているのでしょう。この作品についてゴーギャンは「これは今まで私が描いてきた絵画を凌ぐものではないかもしれない。だが私にはこれ以上の作品は描くことはできず、好きな作品と言ってもいい」としています。

ゴーギャンは11歳から16歳まで、フランス中部オルレアン郊外のラ・シャペル=サン=メスマン神学校の学生で、この学校にはオルレアン司教フェリックス・デュパンルーを教師とするカトリックの典礼の授業もありました。デュパンルーは神学校の生徒たちの心にキリスト教の教理問答を植え付け、その後の人生に正しい教義において霊的な影響を与えようと試みます。この教理における3つの基本的な問答は「人間はどこから来たのか」(Where does humanity come from?)、「どこへ行こうとするのか」(Where is it going to?)、「人間はどうやって進歩していくのか」(How does humanity proceed?)でした。ゴーギャンは後半生にキリスト教に対して猛反発するようになりますが、デュパンルーが教え込んだこれらのキリスト教教理問答はゴーギャンから離れることはなかったと言えます。

日野原先生は、何故、葉っぱのフレディの続編に、この絵を登場させたのでしょうか。
バスカーリアの絵本に対して、さまざまな批判があったと聞きます。中身は知りません。すべての人が求めることに答えることは出来ません。書いていないことに対して批判する人が多いようです。批判は,書いてあること,語られてことに限る、と神学校で学びました。日野原先生は、批判するのではなく、欠けていること、表現されていない部分を加えたのでしょう。
彼岸の世界を見出さない限り、人に平安はありません。
創造者によって始まり、終わることが欠けています。
この二点がないからこそ、多くの人に喜ばれました。宗教性が薄いから。
過去・現在・未来を見通すとき、初めて本当の平安を得ることができます。フレディも未知の世界、未経験の事柄を恐れました。あえて日野原先生は指摘しています。彼岸の世界を見ないようにする、気付かないフリをすることはできる。しかし、その状態は必ず破れる。その先には、混乱と不安が生まれます。
日本人が盆、彼岸を暦の中に取り入れているのは、この点から考えるなら、非常に賢いことです。
《人は何ものか》、神から出て、神に帰るもの、この確信に立つことへと招かれています。






2013年9月15日日曜日

救いは主のもとにある

[]詩編3:1~9、
[讃美歌21]6,352,411,78、
[交読詩編]119:33~40、

本日の詩編は、第3篇です。

この第1節を読むと、衝撃的なことが記されています。
「ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。」
アブサロムは、ダビデがヘブロンでゲシュルの王タルマイの娘マアカと結婚し、生まれた息子(サム下33)。
彼は、全イスラエルのうちで最も美しく、足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった(サム下1425)。

アブサロムは妹のタマル(英語版)を愛していたが、異母兄のアムノン(英語版)がタマルを手ごめにしたことに激怒した。2年の間、機会をうかがっていたアブサロムは、バアル・ハツォルに兄弟たちをすべて集める席を設けて、そこへ手下を送りアムノンを殺害した(『サムエル記』下13章)。アブサロムは母方の祖父であるタルマイのもとへのがれ、3年後に許されてダビデの下に戻った。

4年後、アブサロムは周到な準備をした上で父ダビデに対して叛旗を翻し、ヘブロンで挙兵した。当初、叛乱は成功するかにみえた。イスラエルとユダヤの民はアブサロムを支持し、ダビデの下にとどまったのはクレタ人とペレティ人、ガト人のみであった。ダビデは都落ちを余儀なくされた。

 イスラエルの王ダビデは、一国を支配・統治し、その王権を拡大しました。その後、歴代の王は、このダビデを基準として、いかなる王であったか、評価されることになります。
 このダビデ王は、意外にも家庭のことでは、それほど恵まれていた、とは思えません。
サムエル記下が語るように、我が子アブサロムが反乱を起こし、命を狙われ、エルサレムから逃げ出す。これほどの悲劇があるでしょうか。自分の命が危機に陥ることは、それだけで充分、悲劇です。我が子に狙われる、我が子が、父親殺しになろうとしている。

大きな悲劇です。そして、心ならずも我が子アブサロムを殺すことになります。

 ダビデが、このような悲劇的状況の中でこの詩を書いたとすれば、我が子に殺されようとしている。殺さなければ殺されると考えるなら、我が子を殺さねばならない、という悲劇の中にいたことになります。父親であるわが身の危機と、我が子である者の命の危機、しかもその我が子は、父親殺しになろうとする危機でもあります。

 戦場で、生命の危機と向かい合った牧師の書いたものを読みました。

桜井享(たか)著『ビルマ戦線と私』聖公会出版部、佐柳文男編

横須賀に生まれ、逗子開成中学から立教大学、聖公会神学校を出た櫻井さんが徴兵をうけ、一兵卒として入隊。選抜されて盛岡の士官学校に進み任官。陸軍大尉としてビルマ戦線の死の淵から生還を果たす物語。と言いたいのですが、昭和2081日以降に、シッタン河を渡ることしか書かれていません。815日には停戦が命じられ、英軍の捕虜収容所での生活となります。ほぼ1年半後、故国へ帰還します。

中学時代、高野佐三郎師範より、剣道の指導を受ける。文武両道に優秀な成績。牧師が士官学校へ選抜されることは余りないことです。おそらく、剣道の成績が大変上首尾だったのではないでしょうか。対校戦では相手校選手全員を一人で倒したこともある。

この間、逗子聖ペテロ教会にて受洗。内村鑑三の『聖書の研究』の影響あり。

 

戦地には旧新約聖書一巻を持参。苦しい中でも日々通読に励み、とりわけ、詩編を愛読されました。ビルマで敗走の日々、ついに聖書一巻の重さすら重荷となり、読み終えた部分を焚き付けに燃やした。

 

インパール作戦は、牟田口中将が発起した無謀な作戦、と言われたり、大本営が認可した正しい軍事行動、と言われたりもしています。おそらく残された事実が真実を告げるでしょう。194438日、10万の兵士を動員、食料・弾薬等は1週間分を各自携行、爾後の補給なし。インパール占拠の目的は達成できず、転進という名の逃亡を続け、終戦までに3万を越す兵卒が野ざらしとなりました。白骨街道、または靖国街道とも、飢餓前線と呼ばれます。

インパール北部コヒマでは、戦史に残る激戦を繰り返しますが、佐藤師団長は師団全滅を無意味なことと断じ、総員撤退を命じます。一切の補給を受けられない中で、部下を死なせることは出来ない、と考えたものでしょう。有名な『抗命』事件です。佐藤中将は、15軍司令部に乗り込み、『牟田口を殺す』ことを企てますが、不在のため果たさず、後、精神異常あり、との処分を受ける。これは作戦本部の責任逃れのためです。

 

昭和223月、宇品港へ帰還、復員。

912日執事按手,横浜聖アンデレ教会副牧師就任。

昭和231948)年10月、逗子聖ペテロ教会牧師就任

昭和241949)年6月、司祭按手、

昭和251950)年4月、立教学院チャプレン就任

帰還後は、現地聖公会との交わりを軸に、ビルマを訪問し、戦没者の慰霊・追悼を行い、交流・親睦に努める。ビルマからの留学生のお世話をし、ハイスクール・バスケットボールチームを迎えての交流試合をセットする。

平成222010)年126日、帰天,967ヶ月。

 

僅か65ページの手記、その最後5ページは「人間に確実なものは、何か!」を小見出しに、「人間の生とは何か、死とは何であろうか。」と書いています。

 

櫻井先生の経験は、インパール作戦全体の中では、南に偏り、最激戦地のコヒマ・インパールには近づいてもいないのです。それでも、過酷な作戦全体の姿を良く描いています。

更に、その中での内的葛藤と発見も描いてくれました。3箇所、読ませてください。

 

「結局、人生とは生と死の問題である。アルファとオメガ(初めと終わり)が人間には分からない。つまるところ、あちら側(彼岸)の声を聞こうとする姿勢がない限り、生と死のもつ意味はついに分からないであろう。」63ページ

 

「私は召集される前にも、幾度か「死」とは何かについて、考えさせられることがあった。・・・極限状況に到った人間には、もう自分のことで精一杯であった。いや、最後の土壇場では、自分自身に頼ろうとしても、人間はもう何も出来なかった。人間が人間を助けることもかなわなかった。『人間には確実なものは、何もない。ただ神の前に立つ人間しかない』と悟った。」6162ページ

 

「私は戦いが休息する間によく詩篇を読んだ。私は詩人たちが何でもかんでも、一切の問題を神にぶっつけて要求し祈っている姿を発見して、びっくりした。・・・神は人間に対して、ただひとつの声を与えている。人間はどんなことがあっても、結局、最後は神以外に頼るべきものはない、ということであった。」62ページ

 

これが、ビルマ戦線での体験から学ばれたことです。私たちは、これらを通して、詩編の力を知ることができます。更に経験を書いています。

 

「自分だけの利益を願う者は、なかなか生きて帰ることは出来なかった。

配給される僅かばかりの米を独り占めしようとする者もいた。自分は、一人だけでは食べなかった。心情として,戦友を除外して、食べることができなかったのでしょう。

マラリアの薬、キニーネは使うことなく、他の人に分けた。スコッチのセーターも、自分が使うことなく、他の人の役に立てた。(シンガポールで有賀夫人より頂いたもの)。」

 

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、(私のために)自分の命を失う者は、それを見出すであろう。」マタイ1625

 

極限的な状況の中で、自分の存在の意味、生存理由は、他の人を生かすことにある、と気付かされました。教えられました。出征以前にも同じ言葉を知ってはいました。戦陣に立ち、生命の危機を実体験することで、それ以前とは比べ物にならないほど深く信じる者とされました。まさに詩篇の詩人と、同じ危機体験を分かち合い、詩篇が真実をうたっていることを知りました。救いは、ただ神にある。これこそ希望であり、慰めとなりました。

感謝しましょう。祈ります。

2013年9月8日日曜日

幸いな道を歩む

[聖書]詩編116
[讃美歌]6,227,504、
[交読詩編]15:1~5、
 

詩編、編という文字は口語訳までは竹冠。篇でした。

葦編三絶、これは漢文の熟語。葦編、いへんの本意は葦。水辺の植物で、その茎の繊維は有用でした。これを編んだものはパピルス、紙となります。竹簡(竹を薄く削って、そこに文字を書き付ける。日本でも発掘されている。木片の場合は木簡)を綴った革紐が、三度、切れてしまう、それほどこれを読んだ、という意味です。出典は『史記』の孔子世家。孔子が晩年、易を好み、周易を読むことが多かった様を表現しています。

中国の詩、漢詩と呼ばれますが、実際は唐詩と呼ぶべきでしょう。漢文・唐詩・宋詞と呼ばれます。唐詩を論じる文章の中に、この詩篇は、と竹冠の篇を用いているものがありました。たけかんむりは、竹・木簡に書き付けられたものを言い、糸偏は、それらを糸で綴り合わせたものを言う。

残念なことに竹冠は、常用漢字から外されました。似ている糸偏を用いたようです。

現代の書物は、上等のものだと糸で綴り合わせているからでしょうか。この頃は接着剤で製本しているようです。閑話休題。

 

詩編とは、詩集と同意語、と考えて間違いないでしょう。日本語では、旧訳聖書の中の、歴史的、信仰的なヘブライの詩歌を集めたものに限られます。英語では、Thw Book of Psalms と呼び、第1巻を、Book 1としています。

それぞれの詩が作られた時代、事情はさまざまです。紀元前十世紀以前のものから前三・四世紀ごろまで、およそ千年に渉ります。従って、繁栄の中で神を讃美するもの、王の即位式、新年の祭り、敵に囲まれている中で助けを求めるもの、深い罪の告白、悔い改め、その他さまざまです。一つ一つもそうですが、全体としても「イスラエルの祈りである」と言えるでしょう。

いまの形に編集した人や事情、なども判りません。

 

誰が作ったのか。詩人としか言えないように考えています。詩を書けば、あるいは書いたものが詩と認められれば、書いた人は詩人です。預言者、王ダビデ、祭司、天地創造の神、主なるヤハウェを信じる敬虔なイスラエル人。皆、この詩人の可能性があります。

旧訳聖書に見られる詩編のうち、最も古いものは、士師記5章の「デボラの歌」、あるいは申命記32章の「モーセの歌」、と考えられています。

 

詩編を説教しようとしていますが、実のところ私自身は、この「詩」というものがよく分かりません。青年時代、教会の年長の友人に「詩とは何か」、と聞いたことがあるほどです。彼は、君は意外と詩人だよ、と答えました。これは、当時神学生として、主日礼拝で説教した後のことでした。その説教が意外にも詩的な部分を持っていたことが、この友人を驚かせたのでしょう。私は、詩人でもないし、詩を理解することも出来ない人間。

ちょっとつまらないなあ、と感じます。

 

英国の人は、大変詩を好みます。ブラウニングの『春の朝』、17世紀のトーマス・ケン、

有名なシェイクスピアー(15641616)、『ハムレット』や『リア王』、『ロミオとジュリエット』などの作者、戯曲作者として知られます。しかし、それ以上に詩人として名が高い人です。

 

日本では、教養ある人は、漢詩を作りました。手許に『漢和名詩類選評釈』という本があります。大正31914)年10月初版、昭和589月修正96版発行。1000頁、4800円。頂き物。索引の一つは、中国の詩人の名前と,日本人の名前に分かれています。日本人の名は。足利義昭、新井白石、上杉謙信、江藤新平、木戸孝允、西郷隆盛、菅原道真、武田信玄、伊達政宗、乃木希典、頼山陽など。文人とは考えていなかった有名人たちの名が多く視られます。頼山陽は詩人・文人として知られ、乃木希典は、明治天皇に殉じて、自死した明治期陸軍の将軍。新井白石は、政治家で学者、『折りたく柴の記』で文名も高い人。

当然、漢詩を書いていることになります。特に武将の詩は、高く評価されています。若い下積みの時代、寺に預けられるなどしたときに、修行しています。

 

現代日本では、如何でしょうか。私は、よく知りません。

中勘助、串田孫一、おふたりは日本の代表的純詩人としてよく知られます。

串田さんだったかな、「人は誰でも一篇の小説は書ける。しかし誰でもが詩人になれるわけではない。」と言われました。自分の生涯を書けば小説になる。詩はそうは行かない、と言うことです。事柄の真実を見抜き、選び抜かれた言葉でそれを表現する。これは誰でも出来ることではないでしょう。詩人には特別な眼と心が必要だ、と感じます。いわば、詩的感性、というべきものです。誰でも詩人に成れるわけではなさそうです。

 

佐藤春夫、井伏鱒二(佐藤に師事)、この方たちは、中国の詩を日本語の詩に訳されました。その見事さは翻訳というよりは、新しく別の詩を創作したようなものだ、と評されたことから、分かるでしょう。佐藤は、その本質は詩人である、とも言われるほどです。

国木田独歩、島崎藤村、小説家としても有名です。

クリスチャン詩人では、八木重吉、水野源三、河野進、星野富弘、

 

  八木重吉

天というのは

あたまのうえの

みえる あれだ

神さまが

おいでなさるなら あすこだ

ほかにはいない

 

病まなければ」 河野進

病まなければ 捧げ得ない悔い改めの祈りがあり

病まなければ 聞き得ない救いのみ言葉があり

病まなければ 負い得ない恵みの十字架があり

病まなければ 信じ得ないいやしの奇跡があり

病まなければ 受け得ないいたわりの愛があり

病まなければ 近づき得ない清い聖壇があり

病まなければ 仰ぎ得ない輝く御顔がある

おお 病まなければ 人間でさえあり得なかった

※ 河野進 1904(明治37)年生まれ。岡山倉敷の玉島教会牧師。キリスト教社会運動家で有名な賀川豊彦の薦めにより、岡山ハンセン病療養所における慰問伝道に50有余年をささげた。1990(平成2)年、86歳で召天。

 

讃美歌集を出版する時、その第1曲を何にするか、編集者たちは悩むそうです。

旧讃美歌「神の力を 常世に讃えん」ロバート・ブリッジス詩、ダビデ詩編歌、ジェネヴァ

第Ⅱ編「心を高く上げよう」ヘンリー・M・バトウラー詩、アルフレッド・M・スミス曲、

讃美歌21「主イエスよ、我らに」ウィルヘルムⅡ世、カンシオナーレ ゲルマニクム 

第1曲によって,その歌集の全体像を示そうとする。オペラの序曲と同じ。

聖書の詩編は150編、その第一の詩によって全体が見えてくるのではないでしょうか。

そうは言っても、それを読み解く素養がなければ、理解は難しいでしょう。

詩が持つ力の不思議さは、素養がなくとも、直感である程度まで理解が可能であることです。難しい言葉、普段使っていない言葉が続いても、心のうちに響いてくるものがあります。感じられます。

この詩編第1編もそうです。

1節は、「・・・しない人は幸いです」、と謳います。

「神に逆らう人」、英訳では、ungodlyとなっています。「計らいに従って」、旨く訳しています。ある人は、これを、悪の道に落ちて行く第一歩、と解釈しました。誘惑するものは、最初、言葉巧みに、面白い話を聞かせる。善意で、その話に耳を傾けている。歩きながら。次の行は、それが、立ち止まっての立ち話に変わって行くことを示しています。

誘惑者の巧みな手立ては、ついに、一緒に座り込み、話しこんで行くように進みます。

初めは、この程度なら大丈夫、と考えています。次第に深みにはまって行きます。

 

 アメリカの社会心理学者、エーリッヒ・フロムは書きました。人間は、本来悪に対して自由を持っている。フリーハンドだ。しかしその自由をどこかで少しずつ手放して行き、全く不自由であるかのように、悪の思いのままになってしまう、と。

一日の仕事を終え、会社を出る。今日は良い一日だった。気持ちが良いし、暑くて喉が渇いた、まっすぐ帰るべきだが、一杯くらいなら良いだろう。『スーダラ節』の世界。

作詞、青島幸男。真面目な植木は、こんな歌を唄いたくなかったそうです。真宗寺院の住職である父親に「親鸞上人の教えとぴったり。ヒット間違いなし」と言われて、唄うことにしたそうです。私は、ロマ書719と詩編1とぴったり合致する、と考え、興味深く聞いていました。

チョイト一杯の つもりで飲んで

いつの間にやら ハシゴ酒

気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝

これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ

分かっちゃいるけど やめられねえ

 

ねらった大穴 見事にはずれ

頭かっときて 最終レース

気がつきゃ ボーナスァすっからかんのカラカラ

馬で金もうけ した奴ぁないよ

分かっちゃいるけど やめられねえ

ア ホレ スイスイ スーララッタ

スラスラ スイスイスイ

スイスイ スーララッタ

スラスラ スイスイスイ

スイスイ スーララッタ

スラスラ スイスイスイ

スイスイ スーララッタ

スーララッタ スイスイ

 

アメリカ人のフロムは、もっと深刻な姿を描き出しています。

人は皆、幸せを求めて生きています。旨く行かないのは、このくらいなら、という油断が働いています。

 

 6節、知っていてくださる。神は従う者、逆らう者、いずれの道も知るのではないのか、と問われるかもしれません。ヘブライの言語では、知ることは愛することであり、一体となることです。リンカーンは、南北戦争中に祈りました。

「神よ、私と共にいてくださいとは祈りません。

私がいつも、あなたと共にいることができるようにお助けください。」

詩人は、神に従うことの喜びを歌います。神を知らず、自分の利得だけを考え、他者を切り捨てる生き方に訣別しましょう。それこそ、私たちが歩むべき幸いな道であります。

2013年9月1日日曜日

よろしく伝えてください


[聖 書]フィリピ42123
[讃美歌]6,7,511、
[交読詩編]147:1~7、

本書末尾の挨拶。当時の手紙の習慣で、前書き同様、最後に挨拶を書きます。

第二テサロニケ317、ガラテヤ611、コロサイ418には、手紙の最後に、パウロが自ら筆をとり、大きな文字で書いていることが知られています。書記役を用い、口述筆記で手紙を書いてきたパウロは、その最後は、信仰を共にする人々の心に直接、語りかけようとしたようです。

 

本書末尾の祝祷、ここに至るまでにも、いくつか存在しているように感じられます。

「最後に」ト ロイポン、が3149に出てきます。

従来、それはパウロの心の高まりによって終わらなかった、次の文が迸り出たもの、と解釈されてきました。そうして、この手紙の一体性が主張され、守られてきました。

「この手紙の統一性を疑うべき理由にはならない。」なんとなく、はてな、おかしいな、と感じながら、納得し、頭の片隅に押し込んでいました。最近、若い牧師が、その説教の中で、『フィリピ書三文書仮説』を提起されていました。おそらく修士論文のための研究だったのではなかろうか、と感じます。

発表者は、横浜指路教会の嶋田恵悟伝道師、現在は、按手を受けて土浦教会の主任者です。日本基督教会の木下順治牧師は、60年代初めごろ、『ローマ書二文書縫合説』を発表されました。日本の聖書学会は、これを受け入れず、冷淡でしたが、欧米の著名な聖書学者は、木下論文に注目し、それを更に発展させ、ローマ書七文書説等々を発表するようになりました。時代は移り、変わります。若い聖書研究者は、フィリピ書三文書説を発表する。末尾の祝祷は、まさにそのものである、と理解することから詳細に検討しています。受け入れられないかもしれません。それでも黙殺するのではなく、論議して欲しいなあ、と願います。

三文書は、次のように分析・構成されます。

1131B文書、31「最後に」ト ロイポン

3249C文書、49「最後に」ト ロイポン、非難の激しい調子、

410423A文書、感謝と祝祷、

 

 僅か3節の、習慣的な結尾の挨拶ですが、そこにはいろいろな問題が隠されています。

順に読んで参りましょう。

 

21節、「挨拶」、アスパゾマイ、「よろしく」

文語訳では「安否を問へ」。原語 aspazesthe で、その命令形「挨拶せよ」の意味。

口語訳は「よろしく」。信徒相互間に愛の挨拶を交すこと。

文法的には、これが命令形になっていることが気になります。次のように訳せないでしょうか。

『すべての聖徒の間で安否を問いなさい。わたしと共にいる聖徒からも挨拶します・安否を問うています。』

ある教会では、礼拝の中で『相互問安』を組み入れています。隣り合う人たちと挨拶を交わします。初めての人、お客様もいます。厚別教会では、礼拝後にお茶の時間。こうした問安の時間であり、教会がしっかり受け止めるなら大事な時です。

 

挨拶の内容、その本質は何でしょうか。

  エイレーネー(ギリシャ語)「平安があるように」ヨハネ201926

  シャローム(ヘブル語)、朝・昼・夜、いつでもこの一語で挨拶、

 Ⅱ編讃美歌202番、『友よ、また会う日まで』

シャローム ハベリン シャローム ハベリン シャローム シャローム

レヒトラ オーツ レヒトラ オーツ シャローム シャローム

   友よ、また会う日まで、シャローム、シャローム、

恵みの主守りたもう、シャローム、シャローム、

 キブツ、スデボケールのプールの中での、スイスから来た青年との交流を思い出します。

彼は、ユダヤの歌を教えるから、日本の歌を教えてくれ、と言いました。この歌を教えられ、お返しは、『さくら、桜』にしました。

 

口語訳は、「聖徒一人びとりに」と訳しています。黒崎、塚本など個人訳も同じです。

「ひとりひとりに」挨拶する気持ちが現れています。この手紙自体、宛先は、「信徒たちへ」であり、複数の人たち、その集団、あるいは組織が想定されます。しかしパウロの本心は、ひとりひとりの皆に語りかけているのです。教会の礼拝をはじめ諸集会で話すとき、集団全体に話しかけることは稀です。集団としての意志決定を求めるようなことがあれば、全体に向かって語りかけるでしょう。そうした時でも、一人一人を思い浮かべながら語るでしょう。パンタ ハギオン、全ての聖徒、ここでは「一人一人の皆」を考えます。

パウロは、フィリピの信徒ひとり一人を思い起こし、語りかけています。

説得の技術としてそうする人もいるでしょう。しかし、パウロはフィリピの教会のことを考える時、懐かしいあの顔、この顔を思い浮かべ、深い交わりを嬉しく思い出したに違いありません。私程度の者でも、あの礼拝やこの礼拝、何よりも主にある交わりをありがたく思い出します。

 

22節、「皇帝の家の者たちから」、エク テース カイサロス オイキア

この所に関しては、諸説紛々。一応紹介してみましょう。

カエサルは、ローマ帝国皇帝の称号。本来は、ユリウス・カエサル家の家名。

この皇帝の家族を指している、との考え。特別高い地位、名誉を保つ名家なので、別して書いたものだろう。パウロは、地位や名誉、家柄など福音信仰以外のものを格別なものとは考えていないので、この考えは妥当しない。

当時、ローマにおいて伝道が非常な速さで進展し、上層部でも最高の部分に到達したことを示そうとしている。これも前述の理由で退ける。

カエサル家の支配はおよそ百年を経過しました。皇帝の名称、皇帝位そのものを表します。帝国各地に皇帝直属の部下や奴隷が配置され、皇帝に所属する動産・不動産等を皇帝の利益を代表する形で、さまざまな管理を行いました。(皇帝の財産と政府の財産の分離は出来ていませんでした)。代官所のようなものでしょうか。これがカイサルの家であり、お膝元のローマにもありました。

同様に、パウロが居住させられている家も、兵士に護られているカイサルの家と考えられます。

 

パウロが、不本意ながら、皇帝に上訴した結果、カエサルの家にいる多くの人との関わり、折衝が増え、パウロを通してキリストの福音が知られるようになりました。フィリピは、ローマ軍団退役兵士たちの植民都市とされました。当然、ここで言う『家の者たち』も多く、彼らがフィリピ教会にもかかわっていたのでしょう。そうしたことから、パウロは特にカエサルの家の者たちに言及した、と考えられます。

 

23節、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」

ガラテヤ618は、これとほぼ同じです。Ⅰコリント1623とⅠテサロニケ528は、「あなた方と共に」、となっています。

もっとも有名な祝祷は、Ⅱコリント1313です。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように。」

これは父・子・聖霊、三位一体の神による祝福と呼ばれ、三一定式の祝祷として知られています。祝祷は、これ以外にも幾つもあるので、自由に選ぶとよろしい、と教えられました。明治学院の宣教師、ヴァン・ワイク先生です。祝祷を探してみましょう。

 

 ここでの問題は、「霊」をどのように考えるか、ということでしょう。私たちは、このような場合、ギリシャ的な霊肉二元論の考えをとりやすいのではないでしょうか。確かにパウロの思想・精神はヘレニズムの影響を受けています。しかし、それ以上に彼はユダヤ人です。ヘブライの思想・精神に骨の髄まで浸かっています。ギリシャ人にはギリシャ人のようになることが出来ます(Ⅰコリント920)。それでもその根底にあるものは、霊肉一元のヘブライズムです。ここでも,肉体から分離される霊・内的な精神に限定するのではなくて、人間存在全体を指し示す言葉としての『霊』なのです。全人格と共に恵みがあるように、との祈りです。

 

23節の最後に、「アーメン」を加える写本があります。

大文字写本群、古い時代のものと認められる写本に付けられた略号、先ず信頼性が高い、

D6世紀・ケンブリッジ大学所蔵、eap(一部vac.

  A、5世紀・大英博物館所蔵、eapr(一部vac

  アーレフ、4世紀、大英博物館所蔵、シナイ写本(eapr、新約が揃っている)

46,チェスター・ビーティーパピリⅡ(パピルスに書かれたもの)およそ200年ごろ、

    ボドマ-コレクション、ミシガン大学、最古の写本に属する。パウロ書簡の一部、

    P54P66は同じく200ごろである。

   チェスター・ビーティーパピリⅠは、P45、福音書の一部である。3世紀とされる。

 

現行訳は、これを削除しています。その判断が、正しいとしても、大変古い写本であることをどのように考えるのでしょうか。写本の成立時期を見ると、200年ごろから456世紀であって、かなり早い、と考えられます。その時の写字生がこれを写し終えたとき、この内容に思わず「アーメン」と唱和し、書き込んだであろうことは、推測に難くありません。全内容、または、この祝祷に対し、私たちも率直に、写字生と共に感動することが許されています。