2013年10月27日日曜日

何を誇りとするか


[聖書]詩編20110
[讃美歌21]502,358,378
[交読詩編]19:1~7

本日の詩編は、第20編。余り読まれていない、と感じます。次に読むのは23編です。

その間に2122編があります。こちらの方が読まれている、有名な詩篇と言えば、どちらかと言えば、こちらの二つでしょう。説教のために、どの詩編を選ぶか、その基準は何か。実は基準はない、と言うことが明らかになりつつあります。

二・三ヶ月先まで、説教の予定を立てます。詩編の場合は、よく知られているもの、自分の感覚に触る言葉を捜して、それを選びます。今朝の20編は、6節「旗を掲げる」、8節「戦車を誇る、馬を誇る」という言葉に引っかかりました。

 

20編は、七十人訳では19編とされています。そして伝承本文(マソラテキスト)との間には多少の違いが見られます。

前半は集団的な嘆きの歌、後半は個人の感謝の歌ですが、全体としては王の歌と考えます。

祭儀的な背景に関しては、さまざまな主張がありますが、結局は、王の即位に際して王の幸いを祈った詩、あるいは新年に王が新たな年の支配を始めることを祝い、祈ったものと理解するのがよろしいようです。

 

1節には、「ダビデの詩」、とあります。ダビデ自身のものとすることはできないまでも、その時代のものである可能性は考えられます。

 

2節「苦難の日」悩みの日、何時のことでしょうか。過去のことと解することが多いものです。意外にも、ここでは、今後のこと、と理解されています。

 

6節「旗を掲げる」、旗を立てる。旗は神の現在のしるし、救いのしるしと理解されます。

私たちは、どのような時に旗を立てるでしょうかか、そこには、どのような意味があるでしょうか。掲げる旗印によって、自分が服属するものが何か、明らかにする。その旗印を誇り、重んじる。

 

いろいろな旗を見て見ましょう。

日本の軍旗について

帝国陸海軍は、天皇の軍隊であり、その国土、財産を護るためのもの。明治国家は、天皇主権を定める憲法に基づいている。天皇の軍隊の印が軍旗。

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で日本最後の内戦となった。このとき、軍旗紛失事件が起こりました。天皇から下賜された軍旗です。連隊長乃木希典少佐は、責任を感じ、死を望みました。

 

明治101877)年222日、乃木少佐率いる小倉歩兵第十四連隊は向坂で薩軍と遭遇。この地に222日午後10時、植木から退却した乃木少佐は、点呼のあと十四連隊旗と河原林少尉の不明を知り自決を図ったそうである。

 

1)薩軍本隊が薩摩を進発したのが明治10年2月15日

2)北上、熊本城を取り囲んだのが一週間後の2月22日

  しかしながら当初の目論見と違い、熊本城は中々堅固で落ちません。

3)そこで城の強襲策を長囲策に切り替え、軍を北上軍・長囲軍に分けたのが2月24・5日。

  その間、熊本城籠城軍の救援の為南下してきたのが小倉第14連隊(連隊長乃木希典)

 植木・木葉で戦闘があります。薩軍に軍旗を奪われたのがこの時。

 

日本人の間で最もよく知られる旗、紅白の旗です。

起源は、源氏の白旗、平氏の赤旗。今日に至るまで、紅白対抗戦の形で残っています。

 

維新のときの「錦の御旗」

赤地の錦に、日月を金銀で刺繍(ししゅう)したり、描いたりした旗。鎌倉時代以後、朝敵を征討する際に官軍の旗印に用いた。錦旗(きんき)。後になると、自分の行為・主張などを権威づけるために掲げる名分を意味するように用いられました。

 

御旗・楯無、甲斐の武田家に伝わる重代の宝物。日の丸の旗印と鎧

新羅三郎義光は、父頼義が後冷泉天皇から下賜された「日の丸御旗」と「楯無鎧」を嫡男義業ではなく、三男の義清に譲りました。これが、義清・清光父子とともに常陸國から甲斐國に伝えられ、甲斐武田家の家宝となったのです。

以来、御旗・楯無鎧は、武田家の惣領のしるしとして、信玄・勝頼に至るまで代々引き継がれていきた。   戦国の武将甲斐武田氏祖先発祥の地を偲ぶ会事務局
  茨城県ひたちなか市武田874-1 ()大谷酒店内

 

コンスタンティヌス大帝の旗、十字架と「トゥイ トーイ ニカ」。312年のこと。

ディオクレティアヌスは帝国を分割して残します。彼が引退すると、副帝たち、その息子たちは対立し、ソウランを始めました。副帝の息子コンスタンティヌスは、ブリタニア(イングランド)とガリア(フランス、スペイン)を領有していました。彼は、マクセンティウスと覇権を争いました。ローマを目指して進軍の途上、「日没ごろに太陽の上方に燦然たる十字架の形の光と、『この印によって征服せよ』という意味のラテン語が顕われたのを仰ぎ見ました。」トゥイ トーイ ニカ。彼は勝利を確信し、この神を信奉し、勝利を収めました。その後キリスト教徒になり、キリスト教を国教とします。

   塚本虎二の語録集の書名は『友よ、これにて勝て』

 

こうした旗を挙げる、掲げることによって人は、自分が何を主として仰いでいるか、誰の意思に従っているか、誰を誇りとするか、明示するのです。

 

7節以下は、後半となります。前半の祈願に応え、神の託宣が与えられ、祈りの聞かれたことが確かになる。

「油注がれた方」受膏者は、油注がれた王を意味します。

 

8節は、聖戦の伝統を語っています。詩人は、そうした時代にあって、歌います。人は、

強力な敵対者に対抗するため、エジプトや、自分たちの戦車や馬に依り頼もうとします。こうした北王国イスラエルに向けて、古い信仰の伝統を新たに生きようと勧めます。

 

詩人の信仰は、決して理想主義的なユートピア思想ではありません。救済の事実を背後に持っているのです。イザヤ311以下に、詩編20編に合致する事情が記されています。

 

紀元前705年、ユダの王ヒゼキヤはシドンとアシュケロンと結んでアッシリアに反旗を翻しました。アッシリアは初め東方の反乱鎮圧に力を取られていましたが、701年になってユダに攻めて来ます。ヒゼキヤが頼りにしていたエジプトは軍隊を出しますが、エルテケの戦いで撃退され、ユダ全土をアッシリア軍が席巻することとなりました。エルサレムの城壁の前に立ったアッシリアの使者は勝利を誇示し、降伏を勧めます (列王下18:17以下)。軍事同盟は、肝心なときに役に立ちませんでした。エジプトもアッシリアの勢力をくじきたいのはやまやまですが、犠牲が大きすぎると思えばさっさと引き返すのは当然です。

  1節の「頼りとし」「尋ね求めようとしない」は過去形で、ユダがすでに相当の打撃を被った段階での預言であることを示しています。主なる神を頼まないで馬と戦車と騎兵に頼った誤りがこの事態を招いたのです。驚いたことに、災いをもたらしたのは主ご自身です。裁きのことばが取り消されることはありえず、悪を行う王宮は懲らしめを受けねばなりません。「主がみ手を伸ばされると、助けを与える者 (エジプト) はつまずき、助けを受けている者 (ユダ) は倒れ、皆ともに滅びる」。

人を頼って神を尋ね求めない者はうつろいゆく肉にしがみついき、生かす力である霊を失うからです。しかし、まだ希望はあります。人間のものではない剣によって、神はアッシリアを倒してくださるからです (8)。その預言のとおり、本国の異変のためか疫病のためか (列王下19:7, 35)、敵は囲みを解いて退却しました。

  この10年、日本はますます軍事同盟の深みにはまっています。2004年から人道支援の名でイラクに派兵された航空自衛隊のしごとのほとんどが武装した米軍兵員の輸送だったことが裁判で明らかになり (2008417日名古屋高裁判決)、米・豪・加・韓などとの環太平洋合同演習では2010年に自衛艦も退役した米艦船を砲撃・撃沈し、2012年には海将補 (少将に当たる) が統合軍副司令官を務めました。今、どうすれば主を尋ね求めることになるでしょうか? (高市和久)

彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを誇り、頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしないのです(イザヤ311)

戦車、馬に依拠する心は、掲げる旗印にも依り頼もうとするでしょう。

 

詩人は、神にたてられた王が、敵対者と戦うことを知っています。その時、王自身がその敵対者同様、馬や戦車に頼るかも知れない。それは、決して力を持たず、敵に勝利を収めることは出来ません。

 

イザヤ書を聖書の預言書と信じるユダヤ人たち。彼らは、何を誇りとし、頼りとしているでしょうか。主の掟を守るから、神の民であると誇ります。しかし存在の危機にさいしては、同盟国の支援を頼みとし、軍事的な威力によって敵を撃退し、国境線を守ろうとします。ヒゼキヤはエジプトの馬や戦車を頼みとし、同盟を結ぶことでアッシリアを退けようとしました。アモツの子イザヤも、イスラエルの詩人も、存在の危機に対処する道は、そこにはないと語り、歌います。そうした状況だからこそ、神により頼むべきです。

 

今この国は、軍事同盟に依り頼み、国民の愛国心を煽ります。国を守るための法律を作り、国民から言論の自由を奪い、知る権利を奪おうとします。そうするならば、他の国々と対立し、争い、傷つけあうことになるでしょう。この世界の滅亡を来たらせるものです。

旧約の詩人は、人が生きる道は、人の力を誇る所にはないことを示しました。

自分の力を誇りとしてはいませんか。他者の力に依頼してはいませんか。人間は滅びるもの、変化するもの。はなはだしく偽るものです。

エレミヤ179、「心はよろずのものよりも偽るもので、はなはなだしく悪に染まっている。誰がこれを、よく知ることができようか。」

 キリスト・イエスは、人が生きる道、世界が永続する道は、愛をもって、互いに仕えあうことにあると教えました。 

 

そうした人の尻馬に乗ってはいませんか。「虎の威を借る狐」になってはいないでしょうか。悪霊の主権、悪の諸力の支配に服してはなりません。

私たちは、どのような旗のもとに集まっているのでしょうか。こひつじの旗のもとに。

人間が、互いに信頼することができるならば、麗しいことです。この社会は、相互信頼を根底のものとしています。にもかかわらず、人が真に信頼し、誇るべきは、馬や戦車ではなく、キリストにおける神の愛です。「誇る者は主を誇るべきである」Ⅱコリント1017

私たち罪人の赦しのために、御自身をお捧げ下さった、こひつじなるイエスの旗のもとに集まりましょう。

 

 

 

2013年10月20日日曜日

大空は、御手の業を示す

[聖書]詩編19115
[讃美歌]6,224,530,78、
[交読詩編]36:2~10、

前週は、台風26号が列島の太平洋側を通り抜けました。伊豆大島は,大きな被害を出しました。86年の三原山大噴火には、全島一万人の一斉避難を実現させ、驚かせました。今回は、町長、副町長共に不在だったためか、事前の避難勧告等が出ず、災害の大きな一因と考えられているようです。

幸か不幸か、16日の厚別では、大雨は降りました、強風も吹きました。日が変わった頃には、それも収まり、時には晴れた夜空が見えました。私が見たのは、そんなつかの間の晴れ間だったのでしょう。午前二時前後、南の空に、厚別ではこれまで見たことのないような夜空が開けていました。いつもは10個程度だった星が、数を十倍二十倍にも増していました。

決して星が降るような夜ではありませんでした。それでも綺麗でした。

 

 さて、この詩編は、三つの部分から成ります。

第一、天空に示された神の主権をほめたたえる讃歌、1~6
第二、律法とその美しさと善のための力をたたえる讃歌、711
第三、神の御心に適う生涯を送るための力を求める祈り、1214

更に、この三部分は、それぞれ異なる時代の異なる詩編に属するものであった、と推定されています。それらが、最終的には、捕囚後のある時期に、一つの詩としてまとめられたものでしょう。

文語訳でお読みします。

「もろもろの天は神の栄光をあらはし 
 穹蒼(おほぞら)はそのみ手の所作(わざ)をしめす
 此の日言(ことば)を彼の日につたへ 
 此の夜知識を彼の夜におくる
 語らず言はず その聲きこえざるに
 その響きは全地に遍(あまね)く 
 其言は地の極(はて)にまで及ぶ
 神は彼處(かしこ)に帷幄(あげばり)を日のために設け給へり
 日は新郎(にいむこ)が祝筵(いはひ)の殿をいづるごとく
 勇士(ますらお)が競走(きそひはし)るを喜ぶに似たり
 その出立つや天の涯(はし)よりし 
 その運(めぐ)り行くや天の極(はて)にいたる
 物としてその和煦(あたたまり)を被(かうぶ)らざるはなし」

 劇作家木下順二氏は、「この詩編19編の文語訳はほとんど『奇跡』とでも言っていいほどの名訳である」と絶賛しています。

 また、何方が書かれたのか確認できませんが、次のような文章もあります。

「詩編第19編冒頭の六節の文語体による邦訳ほど見事な文章はないという気が、そこを読み返すたびにする。…………どの英訳よりもすぐれている。二種類の現代語訳もむろんとうていこれに及ばない。私はこの数節から、信仰の有無ということとは別のところで、われら人間なるものに強く訴えかけてくる高らかなひびきを感じとる。われらが宇宙と自然と生とは、まさにかくのごとく壮麗であり荘厳であり厳粛でありそして繊細であるのか。…………

 大空に現れた神の栄光の賛美である上掲の六節を読むと、無条件にその通りだと感じないわけにはいかぬ。これらの言葉が耳の中であるいは遥かな高みで鳴り響いていることを、読み返すたびに私はほとんど実感する」。(「ちくま」8819768月刊)

おそらく筑摩書房の書評誌であろうか、と愚考します。

 

この詩を読むたびに思い出すものがあります。旧讃美歌74番です。

〈木岡英三郎編、英語讃美歌300選、23番〉、何故21は、これを削除したのかなあ。

1節 はてしも知られぬ あまつ海原を わたるや朝日の うららに匂いて
   み恵みあまねき 父なるみかみを あらわす光ぞ 日々に新たなる。
2節 暮れ行くみ空に 月星ほのめき、 みちかくる影に 変わるきらめきに、
   ときわに変わらぬ みかみの真理を あらわす光りぞ 夜々に明かなる。
3節 昼はものいわず よるは語らねど、 声なきうたごえ 心にぞひびく。
   「われらのいのちに まします御神の おきてはかしこく みいつこよなし」と。

音楽は、ハイドン『天地創造』第13曲(第1部終曲の独唱付き合唱)、「天は、神の栄光を語り」第4日の終わりの讃美です。そこでは、いまだ野の獣や空の鳥、人は造られていません。

この詩を書いたのは、ジョゼフ・アディソン(16721719)。1712年。オックスフォード大学出身、官職に就くが、賛否両論があった。後国務大臣。Jウェスレーはアディソンの高潔な人格を高く評価した。父親は、同じ大学出身、厳格な国教会の教職。リッチフィールド教会の牧師。アディソンはこの地で生まれ育った。そこは、サムエル・ジョンソンも少年時代を過ごし、歩き回った所。丘が連なり、池や流れは、風、雲、霧を映し、そして鳥や獣が鳴く。

イギリスの真ん中にあるリッチフィールドという町。この近辺は結構きれいな所で、自然があり、古い建物も有ります.リッチフィールドはあまり大きくない町ですが、有名なポイントはいろいろあります。12世紀の大聖堂、エラスムス・ダーウィンの家、英語辞書の作者サミュエル・ジョンソン博士の生地、それとタイタニック (客船)の船長の生地など。

スタッフォードシャー州は産業革命で大切な場所でした。18世紀の運河が近くにあります、今の時代はほとんど旅行者のナローボートです。

「アディソンが少年時代をすごしたこの自然の景観こそは、詩編23編〈主はわが牧者なり〉をも念頭に入れて書いたものであろう。自然の美がアディソンの心に不滅の感化を与えたのである。」
  アディソンは、1719年、47歳で逝去。遺体は、儀杖兵に送られ、文人として最高の栄誉であるウェストミンスターアベイのエルサレム室に安置されました。

 

アディソンは、この詩を新聞紙上に発表する時、次のように書いています。

「信仰と敬虔とは理性ある人々の心に自然に成長してくるものである。彼らは彼らの眺めるあらゆる事物において神の力と知恵との顕現を見るのである。至高者なる神は天と地との形成に於いて自分自身の存在の最善の証明を示しておられる。そしてこれらの証明こそ日常生活のあわただしさと騒がしさとを離れて分別ある人が耳を傾けざるを得ないものである。・・・詩編の詩人はかの高い調子を有する詩句〈詩編19編〉に於いてこの点を美しくうたっている。かかる大胆なまた崇高な思考が詩に貴い材料を提供する例として読者は次のような詩を読まれたい。」アディソン

 アディソンは、この詩編を読むとき、この世界の中にあっても神の自己啓示の声を聞くことができる。現に聞いている、と語っているのです。いつの時代も、決して平穏無事なときはありません。彼の時代は、クロムウェルの清教徒革命から王政復古の後です。新大陸までが、大きく揺らいだ時です。変動極まりない世にあって、変わることのない、大声を出すこともない自然界の事物を見て、神の声を聞いています。

 現代の私たちは、日進月歩の時代を生きています。生きていたら、いつの間にか、このようなことになっていた、と言うことでしょう。古びたもの、時代に不適合なもの、時代に遅れてしまい、役立たなくなったものは棄てられます。多くの嘆きが聞こえてきます。
なんと惨めなことか、こんなはずではなかった。神も仏もあるものか。神は居ない。
神の声なんか聞こえない、聞こえない声が聞こえます。

 詩人は、7節までで、うたいます。神に造られたこの世界の中で、造られたものを見て、神の声を聞きます。私たち人間の声ではないでしょう。その意味では、ただ沈黙があるだけです。人の声が黙する所にこそ、神の声を、神の言葉を聞き出しています。創造主の意志を、聞いています。

 8節から11節では、神から与えられた律法の優れていることを讃美します。詩人は、この掟によって、常に新しく生きることが出来ます。この素晴らしい律法を、声高らかにほめたたえます。人が求める財貨の頂点にある純金よりも素晴らしい。砂漠に生きる民にとって生きる糧となる、栄養源となる蜂蜜よりも、口に甘い、とうたいます。

 12節以下では、この素晴らしい律法も、それを一生懸命守る人間によっては、おごりを生み出すことになる、と詩人は知っています。主なる神の導き、守りがあってこそ、律法も本来の働きを果たすのです。人の力ではありません。

律法を福音と置き換えてみれば、詩人の信仰がより深く理解できるでしょう。

神に従い、大きな報いを受けようと願います。そのような私を驕り昂ぶりが襲います。律法に熱心になればなるほど、掟を護ろうとすればするほど、私たちは傲慢になり、あなたの御心から離れてしまうのです。どうぞ、正しくあなたの御心に従うことが出来ますよう導いてください。

私たちは、この詩人の祈りを共有することへと招かれています。感謝して祈りましょう。

2013年10月13日日曜日

神を信じる

[聖書]詩編1417
[讃美歌]502,37,536
[交読詩編]31:15~21、

前主日の週報予告で、交読詩編14、となっていました。見落としをお詫びします。
二週連続で、この講壇を留守しました。事情はやむなし、と考えていますが、できるだけ、護り続けたい、と感じています。
二週連続の葬儀、これは久振りのことです。御殿場では通常のことでした。特養ホームがありました。「死」は、日常の事。しかしその個人の死は、ただ一回限りのことなので、非日常、といわざるを得ない。初めてのことであって、再び起こることは、決してない。
回数が多くても、慣れてはいけないのです。

この詩編は、この地上に、神に対する不敬・不虔が満ち溢れている様を述べている。
社会の無秩序、混乱、弱肉強食の有様。神への憧れを失った人間の悲しい帰結です。

これは現代の事情をそのままに表しているかのようである。
科学、技術はこれまでにないほど大きく発達している。まさに、日進月歩の時代。
信仰の学問、神学にあっても事情は同じ。若い時代の神学書は、現代には適合しなくなり、古本屋でも買ってはくれなくなってしまう。

「日本は、世界中で一番安全です」。これを売り物にしてオリンピック招致。「原発は、完全にコントロールできています」と明言。あわてて視察に行ったものの、そんなことで好転するはずもない。そして言葉遊び、アレは、影響が、と言ったのだ。

ラジカセが発売されたのは何時だったろうか。まだ青年時代、こういうものが欲しかった、と思い、直ぐに購入し音楽番組から録音し、繰り返し楽しむことが出来た。岩槻時代は基本的には、ラジカセでした。大阪時代は、様変わり。今やその程度のものは、手のひらに収まってしまうようです。小さいこと、視力が衰えたこと、変革に無関心だったこと、これらが原因で、余り楽しめなくなっています。

携帯電話などは、陰も形もなかったものです。いまや小型のパソコンに匹敵する力を持っている。そうでありながら、従来型のケイタイは、いまや絶滅危惧種、と言われ、10年前後で消滅するだろう、と言われている。スマフォとタブレット端末が取って代わる。
パソコン自体、こんなに発展するとは思いがけないことでした。もっと先のこと。
ところがいまや、コンピューター制御はあらゆる分野で視られるものになりました。

戦後、存在するようになったものが、早くもその存在をやめようとする。
日進月歩で進歩する時代は、矢のように早く消え失せる、消滅の時代。
そこでは、賢い者が、格好をつけて、自分の正しさを見せ付ける。充分に考えた、と見せている。国民・大衆は、素直にそれを受け入れる。消費増税や、TPP問題。

ドヤ顔の大将、してやったり、愚昧な大衆・民衆、などという考えは全体主義国家のものと考えていた。それを民主主義国家で観ることになろうとは、悲しい限りのこと。
国民は、自分たちに相応しい政治家を持つのです。

人は自分のことばかりを考え、その地歩を固めるために、人を蹴落とそうとする。
自分の力を誇り、無力な者、弱い者を悪し様に罵る。
神を信じる心を欠いている。
むしろ、自分にとって都合のよい神々を描き、その時々の御都合で従わせ、利用している。

 

本日は、伝道献身者奨励日。
先日、ある人と久振りに会って、食事をしながら話しをした。
若い日、伝道者を目指して受験した。召命感が足りない,とある試験委員が言い,落とされた。「また来年」の言葉もなかった、と言い、それで終わった。そして老人介護の仕事に打ち込んだ。今は施設長、法人常務理事。
この仕事は限りなく牧師の仕事に近い、と語る。

 

特養や、ケアハウスの仕事は、キリスト教と関わるところで行われてきた。最初の特養は、浜松の聖隷保養園を長谷川保氏と共に作り上げた鈴木生二氏の力による。ドイツから来たディアコニッセ、ハニー・ウォルフさんたちに教えられながら。浜松市北部に設立されました。法律が制定される前の年のことでした。これが《十字の園》第1号です。10年後に第2号《御殿場十字の園》、更に10年すると《伊豆高原十字の園》。鈴木氏は、遠州教会、御殿場教会、伊東教会と移って行きました。そのようにして、教会が施設を支える体制を作られました。

「夕暮れになっても光がある」(旧約聖書 ゼカリヤ書14章7節)は、十字の園の理念の聖句であり、初代理事長鈴木生二氏が選定した愛誦聖句、「事業の目標」でもあります。

長谷川保さん、鈴木生二さん、そして施設長、いずれも献身者であり、牧師の説教よりも大きな伝道の働きになっているでしょう。

 

929日、横浜市・長津田で、葬儀の司式をしました。この方、石原重徳先生の父親は、新宿柏木で内村鑑三宅の隣に開業され、主治医を勤められました。子どもたちは、日曜学校へ通いました。ある日、内村先生は言われたそうです。
「重ちゃん、君は教会へ行って、ちゃんとクリスチャンになるんだよ」。
石原先生から、この話を伺ったのは、駿河療養所の中だった、と思います。20年ほど経ってから、御家族からこんなことを言われました。「父は、先生からであれば、受洗する気持ちでした。先生がもう少し長く居てくださればねー、とよく言っていました。」

結局、先生は無教会を貫いたことになりました。

先生は、旧制松本高校から東北帝大医学部に進み、ここで学徒出陣。大陸からフィリピンニューギニアへ渡り、そこで終戦を迎えます。捕虜収容所の生活も経験。多くの戦友が死んでいった、自分は生き残った。彼らの分も生きる、世のため、人のため働く。これが先生の覚悟でした。療養所の元患者さんたちも知っています。

だからこそ、人の嫌がるハンセン病療養所に来ました。

1961年マニラでの学会に出席し、隔離収容するのではなく、在宅治療をすべきだ、と学びました。帰国後、各方面にひそかに働きかけ、愛知県名古屋の県立病院の協力を取り付け、以来退官するまで、このスキンクリニックの仕事を続けられました。1963年から1985年。金にならず、名誉も賞賛すら受けない。却って、療養所内でのみ治療をする、という国法を破っている負い目を背負い続けました。

しかし、「らい予防法廃止に関する法律」が19996年に成立。

1998年、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が起こされ、2001年原告の全面勝訴となりました。この結果、元患者側は、医療関係者を鬼畜である、として追及しました。
葬儀の前に、元患者さんから電話を頂きました。「私たち夫婦は、石原先生の御恩義を決して忘れません。深く感謝しています。御家族にお伝えください。」
石原先生は、もうハンセン病にかかわりたくありません、と仰いました。生涯掛けたお仕事の報いがこれでは、余りにも惨めだ、と思います。

全患協の委員もしたある人は、「この中で生活するためには、あの人たちに同調せざるを得ないのです。」と言いました。この世的には、何ら報いられる所がなかった。それゆえに、主イエスは、これを本当の献身と見てくださいます。

偉い人にならなくて良い、立派な人になりなさい。人の嫌がる仕事を選べば、どんな不況でも、職はあるものさ。これは、内村門下の先生方が、教えたことだそうです。

塚本虎二(日曜学校の先生)、石原謙(東北帝大聖研指導)、鈴木弼美(すけよし)さんとは、その晩年に至るまで交信。

鈴木弼美(18991990)は、山形県西置賜郡小国町にある《キリスト教独立学園》の創立者です。飯豊、朝日連山に囲まれた豪雪地帯です。山梨県に生まれ、東京帝国大学物理学科を1926年(大正15)に卒業し、大学在学中内村鑑三の門に入り(1924年)、キリスト教を学び、物理学の真理よりも信仰の真理の方がなお偉いことが分かり、聖書の研究を一生の仕事と考えるようになりました。

そして内村先生の求めに応えて、1934年、少数教育の学校を始めました。303クラス。
「神を畏るるは学問の始め」、これが学園の教育方針です。すべて内村先生から受けたもの。

1.「神を畏れる人」を育てる
2.「天然から学ぶ」人を育てる
3.「労働することが好きな人」を育てる
4.「自ら学ぶことが好きな人」を育てる
5.「平和を作りだす人」を育てる

読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、なすべきことは労働

伝道献身者奨励日の本旨は、伝道に専念する伝道者を指しています。
私は、自分自身がその伝道者ですから、自己満足にならないように考えます。
本当に神を信じ、すべてを神に捧げた人を覚え、その活動のために祈りましょう。