2014年8月24日日曜日

行きなさい。あなたを派遣する

[聖書]ルカ9571012
[讃美歌]Ⅱ編144、讃美歌21;458,402、
[交読詩編]127:1~5、

 

 少年時代、父に連れられて秩父の長瀞で、キャンプをしたことがあります。戦後のバラック生活時代、あの頃、誰もそんなことは考えもしなかったでしょう。男の子四人が一緒だったのでしょう。川の砂利の上にテントを張りました。暗くなってから雨になりました。かなりの降り方、上流ではもっと降っている、と考えると怖くなりました。父は心配無用、と言いますが、心配性の私は、水際に印をつけてどのくらい水が増えるか調べることにしました。おかげで良く眠りました。

 広島の災害ニュースを見ながら60数年前のことを思い出していました。あの住宅地、せっかく自前の家を持ち、一人前に成れた、と喜んだことでしょう。一切を失い、ローンの支払いだけが残った。本当にお気の毒なことです。大勢の命も失われました。それに連なる多くの方々の悲しみがあります。戦争であれば、もっと多くの人が悲しみと苦しみを味わわせられます。総理大臣を始め政治家諸氏は、見ず、聞かずではなく、良くお考えいただきたいものです。

 

9511928は、多くの学者によって、ルカ特有の枠組みにある、と認められています。或いは、エルサレムへの旅路の出来事、と考えられています。然し、詳細に読み、調べてみると、地理的にはひとつの旅とは考えがたいことがわかります。サマリヤ、ガリラヤ、ベタニアなどが、順序も考えていないように現れます。神出鬼没、学者もお手上げです。

私達が考える旅行ではないようです。目的地へ向かう旅、其処へ到着すれば終了する旅。

そうでないとすれば、どのような旅路にイエスとその一行は踏み出したのでしょうか。地理的な旅と考えることを放棄すると、解りやすくなります。イエスは、エルサレムへ向かいます。道筋は変わります。行きつ戻りつ、という状態です。目指すのは十字架の死、受難です。そしてその旅路の先にあるのは、神の国です。

 母教会の講壇正面の壁面に『ヘッド オブ クライスト』と題された大きな絵の複製がかけられていました。牧師がアメリカで購入してきたものだそうです。斜め正面のキリスト半身像、秀でた額が光を発するように見えました。エルサレムへ向かって、決然進発するさまだ、との説明でした。ある時、立正佼成会の信徒さんたちが集団で見学に来ました。

玄関から、礼拝堂入り口の戸をあけてご案内しました。皆さんは、そこでいっせいに丁寧にお辞儀をされました。正面の複製画を見て、「教祖様ですね」と言われます。その説明は、牧師に任せました。

 

福音書記者ルカによれば、エルサレム行きに備えて、弟子達にどうしても教えなければならないことがありました。弟子は、師匠に倣う者、真似ぶ者、従う者です。生半可なことでは従うことはできません。世の中は、毀誉褒貶が相半ばするのが普通です。

 

9章の最後の部分には、主イエスに従う、と言う三人の人が現れます。その人たちは、教会の時代に現れる新しい弟子達の姿でしょう。安定した生活が営まれ、キリストに従うこともある程度の評価を得ている時代です。ルカの書いたエピソードは、当を得たものとして受け入れられます。95762、イエスに従う者が持つべき覚悟が語られます。

 

 最初の人は自主的、積極的に、「どこへでも従います」と言いました。主は言われます。

「狐には巣穴がある、鳥には巣がある。人の子には枕するところがない」。

動物や鳥類は何のために生きているのでしょうか。繁殖によって、自分の血筋を残すため。

多くの個体は、その使命を果たし終えて、その生涯を閉じます。鮭の一生は良く語られ、知られています。人間には、ずいぶん長い一生があります。その目的はなんでしょうか。血筋を残し、その安全を図るためではないだろうか。「10人の子ども達を育てるため、一生懸命働いたよ」と父が語ったことを思い出します。

イエスに従う者は、それを忘れなければなりません。私は、家を構えることを捨てました。それは、ほかの人に求めることではありません。人によって能力が違います。弟子として働き、結果として家を構えることが出来る者もいる。然し、自分には、それは許されていない。勿論、家内や、子ども達は、私とは別もの、別人格。

どこへでも従って行きます、と言った人も、家を構えることはできない、と聞いてやめたようです。安穏な生活は保障されない、と言うことです。

 

二番目の人、主イエスから招かれた。「わたしに従いなさい」。答えは条件付でした。

「まず、父を葬りに行かせてください」。有名な学者は、アラブ人青年の例を引いています。

この青年は、成績を評価され、奨学金を得て英国の雄牛か剣橋に留学することが認められました。その知らせに対し彼は、「父の埋葬を済ませたらお受けします」と答えました。当時、彼の父親は40歳だった、とのことです。

私自身、同様のことを考えた時がありました。九州の佐賀へ行かないか、一緒に働こう、と誘われたことがあります。岩槻をやめよう、と考えていた時期でした。両親は健在でしたが、高齢になっていました。何かあったとき、帰るのに時間がかかる、と考え、お断りした。内心忸怩たるものがありました。悔い改めました。

その後父が亡くなり、大阪へ。更に母も亡くなり、札幌へ。

 最近の傾向は、若い頃献身を志した人が、定年後、かつての献身の思いを実現する、ということでしょうか。大阪の教会で13年前、二人の人が神学校へ進みました。お一人は、一般企業の社員として働き、定年を前に退職。東神大を卒業、高知県の教会に赴任されました。もうお一方は、高等学校の校長を退職した人。聖書神学校へ。岡山県の教会に赴任されました。昨年、病気のため退任。また牧師として説教したい、と勉強しておられましたが、818日(月)夕刻、心筋梗塞のため逝去。人生の最後に、自分本来の仕事が出来て、お幸せでした。お二人とも若い日の思いの実現でした。

 

三番目の人は、もっと私達に近い。家族に暇乞いをしてから、と言います。別れの挨拶、と言うよりもその諒解を得てから、ということでしょう。家族は、一番理解し合える人の集団になり得るものです。然し現実には、一番期待が強くて、理解から遠いものになり得るのです。そんな筈じゃあなかった、となります。なかなか諒解を得ることが難しいものです。

 

主に従う、と言うことは、それに対して何らかの形で報奨が与えられるようなことではありません。勿論、栄誉が約束されることでもありません。或いは、生活の保障が与えられることでもありません。家族や親しい者たちが賛同してくれることですらないのです。

 

 10章では、ルカ福音書特有の報告が記されます。

KJVをはじめ英訳の多くは『70人』とします。RSVには、「古代の他の写本には『72人』としているものがある」との注があります。

 

101からは、72人を選び、伝道地へ先遣することが記されます。メシアの先駆です。

70は、モーセに助力するために選任された長老達の数(民数1116172425)であり、ユダヤの最高議会・サンヒドリンの議員数。7212×6

創世10章は、70の民族を数えています。この諸民族への宣教が意識されている、という可能性はあります。ただしヘブライ語テキストは70、ギリシャ語訳では72となっています。

 

二人ずつで派遣、二人を代理人とするユダヤの習慣で、正当な信頼が受けられます。

二人または三人の証人の口によって事を定める(申命1915、Ⅱコリント131)。全員一致の議決は認めない、のと同様、ユダヤ5000年の知恵の産物です。

 

102は、マタイ93738と一致します。文脈の違いから、イエスの視界は世界大に拡がり(ヨハネ435)、いたるところで収穫する働き人を待っています。然し、イエスは収穫のときが弟子達によって左右されるとは言っておられません。

 

70人に対する指示は、本質的には91以下で語られたことと同じです。より鋭くなっています。羊と狼の比喩によって、弟子達に迫っている苦難、危機に言及されます。

路傍で挨拶することの戒めがあります。東方世界では、こうした場合の作法があり、大変時間がかかるものです(王下429参照)。それらよりも大事なことがあるのだから、それを避けるように教えられます。

この戒めは、大筋で初代教会のディダケー『十二使徒の教訓』と合致するようです。

ちなみに、このディダケーでは、信徒は日に三度『主の祈り』を唱えることが教えられている、と言います。

 

 語るべきことは、相手の態度によっても変わることはありません。神の国の到来です。

 

 このところには、きわめて厳しい主イエスの教えが語られました。説教者は、いつでも優しい、そして強い、贖い主を示したい、語りたいものです。そうした人間的な思いは一挙に打ち砕かれます。更に、自分自身が自主自立の人間であることを示したいものです。然し、主が示されたことは違います。宣教者は、他の人々のもてなしに全面的に依存すべきである、とされました。ホスピタリティが用いられます。誇り高き自主自立の人格が、他に依存して生きるのは難しいことです。青年時代、ずいぶん注意されました。

私は、その矛盾を解決する道は、他に依存するように見えるが、それは主ご自身に自分自身をゆだねる、依存する、と考えることであろう、と推定しています。私達は、互いの中に、主イエスの姿を見出し、それぞれに与えられた使命を果たしつつ、共に生きて行くことが許されています。感謝して祈りましょう。

 

2014年8月17日日曜日

隠された真実

[聖書]ルカ94356
[讃美歌]二編144、讃美歌21;12,520,77、
[交読詩編]94:8~15、

 

七十二候では、今日までの五日間『寒蜩鳴』ひぐらしなく、でした。手元の卓上カレンダーには、夏木立に木漏れ日の写真、俳句作家・平野恵理子さんの短文があります。

蜩(ひぐらし)が  鳴き始めるころ

この声を聞くと、

遠い日の夏休みを思い出し、  切なさが募ります。

どなた様にも心当たりがあるのではないでしょうか。私も、少年の日々が思い出され、とりわけ御殿場で聞いた染み入るような、消え行くような、悲しげな声を思い出します。

 

札幌では、10種類のセミが見られるそうです。

ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシ、この五種は内地と共通。他は北海道独自の種です。エゾゼミ、コエゾゼミ、エゾハルゼミ、アカエゾゼミ、エゾチッチ、これで10種。どれほどお耳にかかっているでしょうか。

内地では最近西から東へ勢力を拡張しているクマゼミがいます。昔、研修のため熊本へ行きました。そこで聞いた「シャーシャー」というセミ。姿も見ました。やや大型で透き通った羽、筋が緑がかっているのでしょうか、全体が緑がかって見えました。これがクマゼミ、15年前、大阪の夏の主人公でした。その後、その勢力拡張は関東にまで及んでいるようです。関西では、従来の種は少なくなっているようです。「悪貨は良貨を駆逐する」と言うことにならないと良いのですが。

 

前回の説教では、弟子達が、力において(3743)、理解において(43b45)、謙遜において(4648)、憐れみにおいて(4950)、全く不十分であることが示されました。それは同時に、主イエスの弟子達に対する教育が不足していたことでもありました。福音書記者ルカは、欠如、欠陥を語ることを目的としてはいません。むしろ欠けがある故に選ばれ、主のみ旨に従って満たされることが語られます。力と権威を授けられて派遣されるのです。追加教育が必要です。補習と言えるでしょう。

 

その直接のきっかけは、45節ではないでしょうか。

45節は、弟子達の現状を明らかにしています。即ち、彼らがイエスの語る言葉の意味を理解できないでいた、ということです。主イエスは弟子達に、いま、多くの人々に感動を与えた「主御自身が、人々の手に渡されようとしている」と言われました。これは、ルカ福音書では、二度目の受難予告になります。間もなく現実のこと、事実となります。しかし、弟子達はこれを理解できなかったし、彼らにとって真実は隠されていました。

 

ここではギリシャ語のロゴスではなく、レーマが用いられています。ロゴスは、論理、理性、など広い意味を持ちます。レーマは、語られた言葉、実際に話された話、その内容を指します。「全てロゴスの具体的表現」で、語られた内容そのもの。翻訳者の苦労がわかるような言葉です。

 

この直前、悪霊払いも、イエスにおいて父なる神が語られる出来事です。力ある業は、そのまま真実であり、真理です。受難の予告は、同じ主イエスが、まるで力を失った者のように、他の人々によって運命を決せられる、ということです。

 隠された真理、これを奥義・秘儀、ミュステーリオンと言います。そして、この意味が明らかにされることを啓示・黙示(アポカルプス)と言います。主イエスは、その全生涯が秘密・ミュステーリオンであり、同時にその意味を明らかにする啓示なのです。

 

「真理」とは物事の根本原理のことをいいます。本質的(例 真理に目覚めた)。

「事実」は実際に起こったことをいいます。客観的(例 事実無根)。

「真実」とはウソではないことをいいます。主観的(例 宗教的真実)。

 

46節からは、偉い者になりたい、という弟子達の欲求が現れます。これは、2000年の昔のことではなく、これまで、いつでも、どこでも繰り返されてきたことです。弟子達は12人です。多いから争いになったのでしょうか。決してそうではないでしょう。どこかで読んだような気がします。「人は、二人以上いれば必ず、主導権の争いが始まる」。

年齢、体格、腕力、知力、などで優劣が決まっているように見えても、なお争うのです。

相手の足元を払い、引きずり落とし、自分を相手より高い者・力ある者にしようとします。

 

 力を誇ろうとする弟子達の中に、主は一人の子どもを立たせます。子どもの中にはとてつもなく大きな力を持つ者がいます。然し、主イエスが傍らに立たせたのは、ごく普通の子供です。また、現代の心理学が語るような子どもでもありません。

子供=自我の確立、アイデンティティー形成時期にあるため、最大の関心は自己や親に向けられます。

大人=自己愛を抑制し、自己を客観視し、異質な他者を理解することによって、

コミュニケーションが可能になり社会性を持つ。

ここでの子どもは、ユダヤの律法が語る子ども、と考えたほうが適切でしょう。

子どもは、その家庭に与えられた神の祝福です。子どもが、神の祝福を次の世代に受け渡して行きます。それは、神の民であること、その徴である割礼と律法、そして与えられた約束の地を受け継ぐことです。彼らは、大事に守られ、育てられるべきものです。

 

ギリシャ語聖書では、パイディオンが用いられます。原型は、パイス。類語があります。

テクノン、親との関係、親の性質を受け継いでいる意味を含む。

フィオス、息子、世継としての特権をふくむ。

パイス、年齢的に子供であることが第一義、また親子の関係も。

 

子どもを受け入れることは、親がなすべきことです。どのような子どもでも、親はこれを愛し、守り、育てます。これが、受け入れることです。出来の悪い子どもほど可愛いものだ、と言い慣わされて来ました。親であるためには、忍耐が必要です。これが親の担う十字架です。これは、親となって、よく解ることです。

この子どもを受け入れることは、主イエスを受け入れることです。そして、それはイエスをお遣わしになった方を受け入れることなのです。小さい者は、他の人々によって運命を決められるように見える非力な人を指しています。イエスを示唆します。十字架のイエスを受け入れる者は、まさに最も偉大な人物になります。

 

49節以下は、イエスに従う者には、異なる形態があることを明らかにします。イエスの周りには、12人の者、70人或いは72人の者たち、更にその外側に多くの者たちが従っていました。ここでは、この集団の外にもイエスの名によって、不思議を行う者がいた、と知られます。これはイエスに従うものではないから、やめさせるべきだ、というのが弟子ヨハネの考えでした。それに対して主は言われました。

「やめさせてはならない。あなた方に逆らわない者は、あなた方の味方なのである。」

 

イエスの時代、弟子達の時代、教会の時代、いつでもイエスに従う者たちは、自分たちこそイエスに正しく従っているのだ、と考えたようです。主イエスに従う特権的な集団があり、他の者たちの上に立ち、権威を振るうことができる、と考えました。然し、主の考えは違います。従って歩む形、奉仕する形にはいろいろあるのだ、ということです。

マタイ16にはペトロの告白が記され、その中には、『鍵の権能』と呼ばれるものがありました。ローマ教会は、これをペトロ個人が与えられ、その後継であるローマの教皇が保持し、執行している、と主張しています。地上における神の代理人として罪の赦しを与え、また破門を以って脅迫し、権威を高めようとしました。

改革の系譜を引くハイデルベルク信仰問答は、問8385で、「福音の説教と戒規(訓練)によってする」と教えています。戒規は拒絶ではなく、失われようとする者を、もう一度キリストの恵みのうちに取り戻すことが目的です。

主は異なる形を認めることで、豊かさをお与えくださいました。どのような形で主に従うか、わたしたちは選ぶことができます。感謝して祈りましょう。

 

 

 

2014年8月10日日曜日

変貌山とその麓

[聖書]ルカ92843
[讃美歌]讃美歌Ⅱ編144,讃美歌21;285,529、
[交読詩編]13:2~6、

 

早いものです。八月の半ば、暦の上では7日が立秋。七十二候のうち三十七候「すずかぜいたる」涼風至になりました。実際は夏が、もう少し続くでしょう。

前主日は『平和主日』でした。そのことに関してはお話しすることがありませんでした。そもそも、何故この日が、平和主日なのか。私には呑みこめないからです。頭の悪さ、

原爆投下を記念する、唯一の戦争被爆国が平和を訴える。それでは、自国の原爆の被害を訴えることで、もっと広く戦争と平和を訴えることにはならない、と感じます。

 

戦争は、それを始めた国や人がいます。その責任を問う裁判もありました。戦勝国の正義観、論理で裁きました。第1次大戦終結後も、同様な裁きが行われました。再び戦争を起こさないように厳しい賠償の取立てが行われました。ある人々は、これこそ次の戦争の種まきである、と指摘し危惧しました。第二次大戦になりました。

 戦争は、差別と貧困の中から生まれます。最大の悪は貧困だ、と言われるのです。

忍耐を強いられた人々が、それを跳ね除けようとします。そして望むものを手にすることもできず、多くの人が死傷します。自ら愛する者が、また愛された人が、永久に失われるのです。周囲に何倍もの悲しみ、苦しみ、恨みが生まれます。平和ではありません。

 

1945年、昭和20815日、満5歳になった私は、東京の西北部、当時、豊多摩郡と呼ばれる農村地帯の一角にある三部屋の家に住んでいました。今では23区のひとつ練馬区豊玉北になっています。墨田区の家は、310日の東京大空襲で焼けたため、用意されていたここに移って来ました。10万人を超える人が殺された大空襲は、忘れることができません。疎開のため、大幅に人口が減少していた東京でした。疎開政策がなければもっと多くの人が命を落としたでしょう。

原爆に関しては、その当否が問われます。然しこの大空襲という計画的な非戦闘員の殺害は、問題にされていません。人を一人殺せば殺人罪、10人殺せば英雄、と言われます。ベトナム戦争の初期には、戦死者は、と言われていました。ある時期からは、何名が殺された、と表現されるようになりました。メディアの意識が変化したのでしょう。残念なことに25年前の日本人に対する行為には及びませんでした。差別があります。

カーチス・ルメイ将軍(後、空軍大将、空軍参謀総長)指揮下のアメリカ陸軍航空隊は、命令により、情報を元に、一般市民殺戮作戦を立てました。将軍は、ヨーロッパの戦争で、絨毯爆撃を成功させました。戦争指導部は、日本の戦意喪失を計画し、東京の下町に狙いを定めました。大きな円環状の地域の周囲を焼夷弾で炎上させ、火の壁を巡らせ、逃げ出せないようにして内側をしらみつぶしに爆撃する。そのための焼夷弾、油脂爆弾も既に開発され、製造されました。

これは個人の行為ではなく、統合参謀本部の決定した方針、戦略命令に基づきます。

 

関東地方は、わずか22年前にも、おなじような地獄絵図を経験しています。

1923年・大正12年、関東大震災は、東京・横浜でおよそ10万の死者を出しました。家屋火災によるものが殆どでした。とりわけ東京本所の陸軍被服廠跡地では地獄が現出しました。ここだけで4万人超の死者となりました。(被服廠は赤羽に転出済み)

遺体は、半年にわたりここで焼き続けたそうです。横浜に有名な山下公園、山下桟橋があります。何も知らずに多くの人が散策しています。その足元は、東京・横浜の震災瓦礫だと聞きました。

 

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)91115832秒(日本時間、以下同様)、神奈川県南西、伊豆半島沖80km相模湾(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害です。

神奈川県・東京府を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸の広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。「死者・行方不明 105千余」

 

現在、両国の駅前東口には国技館が建っています。その裏手南側が、都立江戸・東京博物館。更に東にはホテル、学校があります。国技館前北側に道路、さらに隅田川が流れています。この辺りに横網公園、東京都慰霊堂もあります。現在、こうした大きな建築物のある一帯が、被服廠跡地です。震災のときには、有効利用のため再開発の計画中で更地になっていました。そのため関東大震災時は、多くの人々が避難をしました。その人々を猛火が襲い、約44,000人の死者を出した場所です。

 

東京大空襲は、死者14万と伝えられます。皆殺し作戦は大成功と評価され、都市への無差別爆撃が続きます。日本全土が戦場となりました。戦争の惨禍が国民の胸に刻み付けられたはずでした。日本人は忘れっぽい、と言われます。大切なことは、忘れてはいけません。心に刻み付け、考え続けるべきです。

 

戦争は、喧嘩と同じで、相手がなくては成り立ちません。いつでも相手になるぞと言う姿勢を取ってはなりません。ひとつの環境整備です。制裁は、抑止ではなく、既に戦争です。戦争は環境の産物です。そして両者の間に悲しみと苦しみを振りまき、憎しみと恨みを永く残すのです。戦争をしない、出来ない環境は、先ず教育によって整えられます。

 

さて、本日の聖書に入りましょう。少しだけ、三福音書を比較してみます。

マタイ、マルコと同じく、ルカはこの記事を、最初の受難予告の次に置いています。

イエスは、来るべき受難について語った後、エルサレムに向かう前に天からの確証を得た、ということになります。

 

ルカだけが、イエスとモーセ(律法)とエリヤ(預言)の会話の内容を示しています。彼らはイエスのエルサレムでの、近づきつつある死について話しています。あるいは、ここは文字通りには、彼の近づきつつある『出発、逝去・エクソドス』について話していた、と言えるでしょう(31節)。エクソダスは出エジプトの意味。イエスの出来事は新しい出エジプトである、と言っているのです。

 

三人の会話の間も弟子達は眠っていました。ようやく目覚めたペトロの発言は、雲によって遮られてしまいます。雲は、畏怖の念を抱かせるような神の存在と結びついています(出エジ241516、使徒19)。使徒たちは、当然畏れました。

使徒たちは、経験したこと、見たこと聞いたことの意味が、何も分からなかったのです。

33節でペトロが発した言葉すら、無我夢中、忘我の状況であり、自身、意味が分かってはいません。

 

三人の弟子は、理解できないことに関しては、口を閉ざしていました。いつまでか、その意味が分かる時までです。話す準備ができていなかった、と言えます。復活の後の適切な時期に、彼らはこのことを思い出し、理解し、よき知らせとして広く語ることになるのです。

 

使徒達は、山の上で神を経験しました。そして神だけが、この場の行為者です。

モーセとエリヤの神は、彼ら二人をイエスとの結びつきにおいて、預言された先駆者として肯定し、イエスが究極の存在であると断言しているのです。

 

主イエスと三人の弟子たち、彼ら四人が、栄光に満ちた山を降りて麓へ来ると、其処には群衆が出迎えています。その中の一人の男が叫びました。「先生、どうか私の子を見てやってください。一人息子です。悪霊がとりつくと、この子は突然叫びだします。・・・」

「一人息子」、アブラハムの息子イサクを思い出します。神の祝福を受け継いで行く希望の星でした。悪霊の働きは、この継承の希望を奪い取るものです。その一人子を生け贄にするように命じられた時のアブラハムの悩み、悲しみ、絶望。それが、この父親の心境です。

「先生」、ディダスカレ、教師、先生、師を指す語。ディダスカロスが原形。律法学者に対しては、ラビ、ラボニ、が用いられます。ここではもっと広く全人格的な意味で、先生と呼んでいるのです。叫んでいるのです。あるとき高校の生徒、大学生から聞きました。自分たちが、先生と呼ぶのは何にも感じないからです。尊敬する人には使いません、「さん」をつける。~さんと呼びます。

この男は、現代の青年が呼ぶときの「さん」と同じ心で「先生」と呼びかけ、叫んでいるのです。

主は、嘆きながら、悪霊を追い出されます。その嘆きは。そのまま現代の人々に向けられているようです。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」それでも癒されます。

 

ある註解者は、「これらのテキストを聞き手の前に差し出す際に、その非日常性をそのままに保つようにと助言されるほうが、その非日常性を我々の経験の輪郭に合わせるために減じよと言われるよりも、良いかもしれない。」と語っています(クラドック)。

何回か、お話したように、奇跡を合理化せずにそのまま受け入れる、ということと同じ姿勢だと感じます。この学者には、励まされます。

 

このところは、951に始まるエルサレムへの旅に対する準備段階の出来事の始です。

力において(3743)、理解において(43b45)、謙遜において(4648)、憐れみにおいて(4950)、全く不十分であることが示されました。

欠如、欠陥を語ることが目的ではありません。むしろ欠けがある故に選ばれ、主のみ旨に従って満たされることが語られます。力と権威を授けられて派遣されるのです。

 

教育・保育を考えます。家庭でも学校でも、場当たり的に漫然と教育することはしません。過程の考えがあり、建学の精神があります。これらは、教育全体の基盤となります。その上に目標を立て、計画的に達成するように努めます。主イエスは、今弟子たちの教育の段階上、大事なステージに上がったことを承知しています。これまで、御自身のそば近くにおいて、学ぶようにしてこられました。伝道の実習にも派遣されました。帰ってきた弟子達を、更に教えられました。弟子の教育が、まだ不十分であることを知りました。

 

主イエスは、これからエルサレムへと、出発しようとされます。そこで、出発までに、弟子達の補充教育をしようとされます。

力において、理解において、謙遜において、憐れみにおいて、再教育と言えるでしょう。

教育・指導に関しても、主は目標と計画を持ち、きわめて忍耐強いお方です。

私達も欠け多く、不十分であるゆえに、選ばれ、教えられ、導かれています。

感謝しましょう。

 

2014年8月3日日曜日

ペトロの信仰告白

[]ルカ91827
[讃美歌Ⅱ編]144、[讃美歌21];8,510、
[交読詩編]18:26~35、

 

 暑い日が続いています。道内でも35度超を記録しているようです。クーラーを使用する習慣のないところで猛暑日というのは、少々過酷なように感じます。

かつて、都内の学校に空調設備はありませんでした。最近は、教育環境の整備のため設置するところが大部分です。各教室、廊下、体育館に到るまで。これは平均気温の上昇を受け入れざるを得なくなった、と言うことです。教会は、この点ではもっと早く意識改革をしています。主日の礼拝を快適に捧げましょう、ということです。岩槻では、私が赴任する以前、ずーっと前から大型の空調機がありました。10年以上

北海道は、どうなるのでしょうか。あなたはどのように考えておられますか。

 

 本日の聖書は、ペトロの信仰告白と受難の予告です、と言って差し支えはなさそうです。

ただ、受難の予告は、受難の意味を語り、弟子達の生き方を教えよう、とするものです。

 

 主イエスは、このところで「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになります。イエスは誰か、という問いは既に二回、尋ねられています。

825、「弟子たちは恐れ驚いて『いったいこの方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った。」

98、領主ヘロデは言った。

「いったい何者だろう。耳に入ってくるこんな噂の主は。」

 

ヘロデの耳に入った噂とはどのようなものだったでしょうか。ヘロデは、領主、この地方を統治する権力者です。権力者の耳にはすべてが正しく聞こえてくるものでしょうか。

権力者は多くの場合、自分にとって都合の良いことだけを聞くものです。周囲の者は、権力者が聞きたいことを聞かせ、それ以外を排除するものです。

このようにして、古代の帝王は、国内の反乱の動きを知らず、安逸を貪り、たった一人で反乱軍に捕らえられ、処刑されました。

 

これは、どちらも自問自答と言ってよいでしょう。たいてい長い間考え続けて答えを出そうとするが、いつの間にか忘れてしまうことが多いものです。

神学校に入って間もなくの頃、教えられたのはそうしたことでした。

「神学校の教師が語ることは、なるほどと思わせることだ。その中に、はてなと感じることがあるはずだ。そのときは質問にはならないかもしれない。それを頭の中で暖め続けなさい。明確な言葉・質問になったら教師にぶつけなさい。」

私達には、考えるスタミナが必要です。そのことを教えてくれたのは、日本人初のボクシング世界チャンピオン白井義男さんです。クレバーボクサーと呼ばれた白井さん。数十年後になって語りました。「ボクシングで大切なのは、15ラウンド殴り合いを続けるスタミナ以上に、考え続けるスタミナです。」これが白井さんのボクシングだったのです。

人生は、目に見える相手や目にはみえない難敵とのボクシングです。

 

5000人への給食、そして御自身の受難と、それぞれ自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい、との教えが語られています。前後の文脈・構成は、三福音書に共通です。

 

単純な推測。はじめにマルコ福音書が書かれました。次いでマタイとルカ、どちらもマルコに基づきながら、自分の必要に応じてそれぞれが持つ独自の資料の中から付け加えました。三福音書間の違いはどこから来ているのか。時代の要求に応えたのです。

 

マタイは、彼の教会の状況に必要な告白と教会の基盤に関する言葉、教会の権能に関する言葉を、自分の伝承の中から見出しました。

マタイ161619は、フィリポ・カイサリアにおける有名な告白です。

 

16:16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 16:17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である 16:18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 16:19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

 

この告白と、それに対する主の言葉は誰に対するものでしょうか。

  告白は誰の力によるものか。神の力が、ペトロに働きかけた。個人の力ではない。

  教会の基盤は個人の人格か、それとも告白か。キリスト告白が岩である。

  鍵の権能は、教皇個人のものか。告白する教会に委ねられている。

旧教会は、ペトロ個人に対する言葉。代々のローマ教皇は、ペトロの人格の後継者。

 

マタイもルカも、イエスは先駆者ではなく、神のメシア、キリストである、との告白を記します。世の罪を取り除く神の子羊です。

 

ルカは、やがて使徒言行録を書く計画を持っていました。使徒達の宣教活動の根源を明らかにしようとしました。それが、「神からのメシアです」と言う告白とそれに続く、受難予告と自分の十字架を背負って従うことの教えでした。

改革者は、教会の基盤はこの告白にあって、告白したペトロ個人、その人格ではない、としました。従って「鍵の権能」も、告白する教会にこそ存する、とする。聖職者の階級制度・ヒエラルキーに反対しました。

 

私たちは、自分で教会を選び取ってはいない、と考えています。たまたまその教会を知っていて、行く気になったから、程度でしょう。事前によく研究し、調査の結果あの教派、あの教会、あの牧師、あの役員、あの伝統を選ぶことは殆どないでしょう。

ただ、その後多くのことを知り、聖書を理解し、解釈を選び取るようになります。最初は偶然であったものが、深められ、確実さを増して行きます。

 

改革教会で受洗し、その後、旧教会へ転会する人があります。事情があったこと、その経緯もお聞きしました。事情は理解致します。できる。

福音を伝える教会に差別がある、とは信じがたいことです。新旧共にあります。

カソリックの階級制度は全く信じがたいことです。教皇を頂点とするもの。枢機卿、大司教、司教、司祭、そして聖職と信徒の間に存する懸隔。大きな溝。

 

あるカソリックの信徒、「私たちは、司教様がおいでくだされば、地に伏して、司教様の靴に接吻いたします。」と言いました。神の地上における代理人と信じますか。

それには、教皇無謬の教義を認め、受け入れなければなりません。教皇庁は、枢機卿団の有能な支えによって教皇は常に誤ることがないという意味です、と説明します。そうでしょうとも。枢機卿団こそ教皇選挙の母体ですから、そのように言わざるを得ないでしょう。選んだ人たちであり、事あれば次の教皇になる人たちですから。

このようなカソリック教会だからこそ、スタンダールの『赤と黒』が書かれ、広く読まれたのでしょう。私は、読みませんでした。主人公の名前はジュリアン・ソレル。赤は軍服の象徴、黒は僧服の色。ルーレットの色という説もあります。家柄や資産、門地門閥というような背景を待たない一般庶民が成功するには赤か黒が、手近であるということです。

靴に接吻するような信仰者にはならないでください。そのような聖職者であるなら、私は自らを恥じるでしょう。

 

牧師職としても、成功などはないほうが好いのです。

成功は、悪魔的な誘惑です。自分の十字架を背負うことを避けるようにしてしまいます。仕えるつもりでいるのに、いつの間にか人をあごで動かし、利用するのが当然になっている。世の権力者と変わりません。主は、私達一人びとりの罪を贖い取るため、十字架に架けられました。私達も、他の人を生かすために重荷を負うなら、苦しくとも喜びと感謝を生きることが出来るでしょう。

 

 

 

マタイ福音書

16:13イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。 16:14彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。 16:15そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 16:16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 16:17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である 16:18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 16:19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。 16:20そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。

 

 

マルコ福音書8

27さて、イエスは弟子でしたちとピリポ・カイザリヤの村々むらむらへ出でかけられたが、その途中とちゅうで、弟子でしたちに尋たずねて言いわれた、「人々ひとびとは、わたしをだれと言いっているか」。 28彼かれらは答こたえて言いった、「バプテスマのヨハネだと、言いっています。また、エリヤだと言いい、また、預言者よげんしゃのひとりだと言いっている者ものもあります」。 29そこでイエスは彼かれらに尋たずねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言いうか」。ペテロが答こたえて言いった、「あなたこそキリストです」 30するとイエスは、自分じぶんのことをだれにも言いってはいけないと、彼かれらを戒いましめられた