2014年9月28日日曜日

何を求めるのか


[聖書]ルカ11:Ⅰ~13
[讃美歌]507,430,497、
[交読詩編]112:1~10、 

 

ルカ福音書では、弟子達が「主よ、ヨハネが弟子達に教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と願い、主がその求めに応えて教える、という形になっています。

ルカは、マタイが伝えるものよりだいぶ短くしています。次の三行を欠いています。

 みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。

悪より救いいだしたまえ。

国と力と栄えとは、 限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。

三行目は、頌栄と呼ばれますが、マタイ福音書にもありません。信頼できる写本が、これを欠いています。これは問題にしなくてよいでしょう。

他の二行は、神が地上に良い介入をするようにという願いです。不可解です。

ことによるとルカは、医者・科学者として自己責任の道を選ぼうとしたのかもしれません。

実はもう一点、見られない部分があります。「天にまします我らの」がありません。

パテル ヘモーン エン トイス ウーラノイス

この祈りが、個人のものではないことを示す大事な部分です。後半部分は、「わたしたち」になっています。それで充分かもしれませんが、父なる神への讃美を共有する、分かち合うことは大切だ、と思います。それの神の所在を「天」と呼ぶ。いいなあ。

 

これは、ルカ1124にはマタイ6913が、ルカ11913にはマタイ7713が、並行箇所とされています。ルカ1158は、他の福音書には見られません。

マタイでは、主がご自分で語り始め、教えられます。主が教えたもう祈り、としてよく知られ、暗誦され、世界中の教会で、信仰者の間で、共有の財産として大事に用いられています。ローマ教会では、主祷文と呼ばれます。ギリシャ(ロシア、日本ハリストス)正教会は、天主経と呼びます。訳文の違いはありますが、内容は同じです。

最初の一行は主への呼びかけ。次の三行は神に関する祈り。続く三行は人間に関する祈り。

非常にバランスよく整えられた祈りです。礼拝祭儀のため、と考えられています。

エルサレムには、たくさんの遺跡があり、聖書に由来する教会もあります。その一つは、東側、黄金の門の向かいにステファノ教会があります。諸聖徒の教会、とも呼ばれています。殉教者ステファノに捧げられた教会堂です。世界中の国々、民族の言葉で書かれた「主の祈り」が、回廊の壁を飾り、世界平和を願っています。

 

なお、最後の頌栄とアーメンは、最古のギリシャ語写本には見られないので、後世の付加によるものと考えられています。ローマ教会、聖公会は、この箇所に関しては聖書に忠実です。基本的に祈祷文からはずしています。

プロテスタント教会は、原文がこれを欠いている事を確認した上で、伝統的にこれを用い、讃美・頌栄で終始する形を整えてきました。

 

祈りの内容に触れて行きましょう。はじめは主なる神を讃美する言葉です。

「父よ」、天地の内なる全てのものを作り、それを維持し、守られる神であるゆえに、父よ、と呼びかけます。万物の始原を指す言葉です。

同時に、父の慈愛を指し示します。その故に、子なる私たちは甘えた祈りも許されます。

その事は、58節の譬で説明されます。

 

「御名が」、古代世界では、名は体を顕す、と考えられていました。名前には実体が伴う、という考えです。「崇められる」は、聖とされますように、を意味します。神が、本当の意味で神とされる。神として讃美されますように、との祈りです。

 

「御国が来ますように」、御国に関しては、マルコ115を読みましょう。

『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』

あのところで、繰り返し教えられることがあります。国とは、領土のことではありません。

主権のことであり、ご支配を示すものです。神の主権による支配が、限りなく接近しています。方向を変えましょう。これがマルコ福音書です。

ルカの主の祈りでは、あなたの愛によるご支配が、この地上に、私たちの間に成就しますように、という祈りです。私たちは、思いがけないほど様々な、多くの力の支配を受けているのではないでしょうか。〔イスラム国〕の脅迫を聞くと、私たちの生命が脅かされている、と恐怖を感じます。そして、彼らの言うとおりにしたほうが安心だ、と考えないでしょうか。その時、あえて、近づいている神の支配を受け入れる方向に変わるのです。

 

「必要な糧を毎日与えてください」。文字通りには、パンを求めます。

天上の神への祈りと、地上の私たちの祈願を結びつける役割があります。天地をつなぐ橋掛かりといえるでしょう。

出エジプトのとき、食べるパンがなくなったイスラエルは、呟きました。与えられたのは、コエンドロンの実に似た白い、蜜のように甘いものでした。朝ごとにその日の分を集めるように命ぜられました。明日のために備えようと考えても、それは融けてしまいました。神は、その日その日をお守りくださいます。出エジプト16章、

鶉とマナを降らせたもうた主なる神・ヤハウェへの信頼があります。

必要なもの以上に願っても与えられません。

 

「罪を赦してください」

罪・ハマルティア、的を外すこと、方向違い、神のみ旨に反する事を指します。

意識していることもあり、無意識に行っていることもあります。

イエスの十字架は、罪の赦し(贖罪)のためである、と語られる。

それにもかかわらず、何故、赦しを求めて祈るのだろうか。

父への甘えの顕れ、なお祈り求めることが許されている。私たちの罪は、赦されてもなお祈らざるを得ないほど大きく深いものだ。

 

「わたしたち」と祈るのは何故か。

個人的な罪であっても、それは決してひとりで犯されるものではない。

その罪が犯されるのを見ていたものも居る。この祈りは私的、個人的なものに留まりません。公的、共同体的、教会的な祈りであることが示されます。神の国の到来を求める祈り。

 

「負い目ある人を皆赦します」

負い目とは、いわば借金、債務のこと。私に対し借りのある人のそれを帳消しにしますから、と言っている。

ルカ福音書198では、ザアカイが言います。

「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

ことによると、帳消しだけではなく、それ以上のことが意味されている可能性も考えられます。

 

「誘惑に遭わせないでください」

この誘惑は、ダイエット中にもう少し食べてしまえ、と言うようなものではありません。

罪へのいざない、神のみ旨に反するように誘惑することです。祈るとき、神を自分の思い通りにしようとすることも、誘惑です。神を従わせる、凄いことです。こうした誘いは、親しい、信頼する友人から来るものです。力ある者に与えられる試練です。

 

私たちの祈り、わたしが主となって、神を僕として、言う事を聞かせようとする。

韓国・ソウルのヨイド広場、大教会があります。その大牧師の書いた本、「できるだけこまかい事まで願いなさい。そうすれば叶えられます」。詳細なことまで告げれば、神は聞いてくれます。いかにして神を私の言うがままにするようにするか。

私たちは、神様が私の願いをかなえてくださることを、喜びはしません。

思い通りにならない、苦しいことにぶつかる時にこそ、神のご計画に従っている、と知り主なる神を賛美するでしょう。

 

この祈りを教えるに当たって、神が私たちの思い通りになる、とは語られていません。

父親は、子どもに良いものを与える。まして天の父は求める者に、願い求める以上に良いもの、即ち聖霊を与えてくださる。

良いものとは、神の力である聖霊なのです。神は、新しく生きる力を与えてくださいます。

感謝して祈りましょう。

 

 

 

 

主の祈り

天にまします我らの父よ。

 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。

 御国(みくに)を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。

 我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

 我らを試(こころ)みに会わせず、 悪より救いいだしたまえ。

 国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。

 

 

(網掛け部分を、ルカは除外している。)

  これを知らなかった、という可能性は低い。

  資料になかった、としてもマタイによって補足出来たろう。

  意識的に、これを加えなかった、と考えられる。

どのような考えがあったのだろうか。

 

2014年9月21日日曜日

祈りは学ぶもの


[聖書]ルカ11113
[讃美歌]507,529,493,77、
[交読詩編]119:73~80、

 

本日の聖書は、イエスの弟子の一人が主イエスにお願いした場面となっています。

洗礼者ヨハネは、自分の弟子達に祈りを教えていたことがわかります。これは、古代からユダヤに伝わる伝統である、と考えます。イスラエル・ユダヤ人たちは、嬉しいとき、苦しく悲しい時に神に語り掛けました。これが祈る伝統です。

旧約に詩編150編があります。連続で説教したことがあります。飛び飛びですが最後まで来た時、この詩編は、古代ヘブライ人の祈りである、と考えたものです。伝統だから誰でも祈ることができる、とは行かないものです。この詩編を暗誦することで祈りを学んだのです。

 

 私たちの教会では、無意識の内に祈りを避けるようなことは少ないようです。お祈りをお願いします、と言われて拒絶する人が少ない、と感じています。確かに、人前でお祈りする、と言うのは恥ずかしい部分があります。神様との密室での対話を公開する感じです。

 然し、祈りは、個人的なものであると同時に、公的なものでもあります。一方に密室の祈りがあり、他方に公的な、公同の祈りがあります。公同の祈りでは、そこにいる皆がアーメンと唱えることができるような内容、そして言葉が用いられるように勤めたいものです。日常の密室の祈りでも努力し、自分を訓練することも大事です。祈りは学ぶもの。

アシシのフランシスは、美しい立派な祈りを残しました。弟子ベルナルドゥスが真夜中に見たフランシスは、ああ主よ、ああ主よ、と繰り返し、涙を流すのみだったそうです。

 

 私たちの時代、教会によって二種の祈りがささげられています。成(式)文祈祷と自由祈祷です。聖学院大学の宗教主事は聖公会の女性信徒。「教団の先生方は、よくアンナにすらすら自由にお祈りされますねー。私は、とても怖くて出来ません。」

聖公会やローマ教会は、式文祈祷です。祈祷書があり、それに従って祈りをささげます。

公的な礼拝、個人的な生活でも「七品の秘蹟」に関わる部分は、これで十分です。式文に記載されていないことに関するとき、どうするのでしょうか。祈りは不要?

カトリックでは、「洗礼」、「堅信」、「聖餐」、「告解」、「終油」、「叙階」、「結婚」の7つを言います。

 洗礼は、キリスト教徒になる事。堅信は、キリスト教徒であることを確認すること。

聖餐は、キリスト教徒であることの儀式。告解は、罪の赦しを得るための儀式。

終油は、死ぬ人、または病気の人に行う儀式。叙階は、聖職者を任命する儀式

結婚は、そのまま結婚です

これらは、1439年にフィレンツェの宗教会議で定められました。

プロテスタントでは、聖餐と洗礼のみをサクラメント(秘蹟・聖礼典)としています。

 

式文祈祷は、それで充分とはいえません。目標があります。必要に応じて自由に祈れるように訓練することです。繰り返し式文を読むことで、祈ることに習熟し、お捧げする言葉を自分のものとすることが出来るでしょう。母教会は、水曜夜、聖研祈祷会を大事にしました。聖研というよりも、信徒が証しをすることを重んじました。そして祈りました。何時のころからか、形式化し、担当者だけが話し、数名が祈って終わるようになりました。生命的なものが消えていったのです。それでも消えないものが残りました。その時各人の心を捕らえて放さないもの、命の喜びが残りました。

 

『祈りの学校』と題された一冊が書棚にありました。今は隠れていて出てきません。

記憶では、福田正俊先生が書かれたもの。非常に堅い先生が、柔らかいタイトルをつけておられるので、何か理由があるのだろう、と考えました。主の祈りの講解でした。当時の私にはお堅くて、敬遠。熟してから読もう、と考えていました。

祈りは訓練されるべきもの、と語るのでしょう。同時に、祈りによって学ばれることについても教えてくださったはずです。祈りによって生まれ、育てられるものは何でしょうか。

この学校の教師は、先生は何方でしょうか。

 

最近、ローマ教会の修道会では、「祈りの学校」という運動があるようです。目指すものは、次のように表現されています。

「内なる静寂 な生活を探求し他者を労る心と、日々の感謝の心に目覚める霊性的なる生活を行う事を 目的としております。」

 

「祈りの学校の訓育を主宰するのは、祈りの霊であります。彼は各種の主題を与えないで、計画的にわずかの中心的なことに集中します。祈りに熟達するには、いろいろ多くの題目に精通する必要はありません。」

(『祈り』O.ハレスピー著、東方信吉・岸千年訳185〜187頁より引用。

 

ルカによる福音書1818に「失望せずにつねに祈るべき」ことが勧められています。

 

パウロは勧めます。

「希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」ローマ1212

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

Ⅰテサロニケ516

 

祈ることに関して、教えられてきたことは幾つもありますが、その幾つかを。

自分の内に静寂な心があることを知ること

祈りは、たとえ短い時間であっても続けること

自分のことばかりでなく、周囲の人々、世界を覚えて祈ること

とりわけ悩み、悲しみ、苦しみの中にある人を覚えること

皆で祈るときは、祈りの輪を作るようにすること

神讃美で終始すること

私たちも祈りを学び、信仰の生活を進めたいものです。

感謝して祈りましょう。

 

 

主よ、祈ることを教えてください、と弟子達は願いました。今、私たちも願います。主よ、祈りを教えてください。御霊自ら、言い難き嘆きを以って、われらを執り成し、祈りが受け入れられるように整えてください。そして全世界の民が平和の内に生きることが出来ますように。大きな災害や戦争が続いていますが、互いに支え、力を合わせ、乗り越える道を見出すことを得させてください。

 

 

 

 

 

 

 

2014年9月14日日曜日

マルタとマリア


[聖書]ルカ103842
[讃美歌]507,204,456、
[交読詩編]62:2~23、


前週は、高橋俊男さんの海洋散骨葬のため、羅臼への出張をご許可いただきました。

散骨は、初めての経験です。散骨葬をしても良いか否かに始まり、さまざまなことを考え、経験することができました。感謝いたします。これまで、小樽、八雲町、定山渓・洞爺湖・支笏湖、層雲峡、栗山町、などへ行きました。函館は、赴任前に寄っています。今回は、北海道経験が一気に拡張されました。

 

 7日午後新札幌を出るJRで、知床半島の羅臼を目指して移動を始めました。老人に深夜バスは無理です、一泊してください、と言う役員会の助言により、釧路泊まり。

8日午前11時過ぎ羅臼に到着、午後3時45分、小型の観光船「エバーグリーン」に乗って沖合いを目指しました。シャチ、鯨、イルカが来遊する海域です。海洋動物を愛した故人の遺骨粉の袋を海に投じました。当人の遺志をご遺族が忠実に実施しました。その向こうには国後島が見えます。30㌔と聞きますが、本当に直ぐ近くに見えます。

9日は、荒天の予備としてありましたが、雨が断続的に降り、ホテルで休養。高橋さんご一家は、バスで、峠を越えてウトロへ行かれました。

10日は、ご一家は雨の中、徒歩で出発、釧路経由で厚別へ。私もホテル前からバスに乗り、知床横断道路でウトロを目指しました。乗客は、終始私だけ。驚きました。これでは路線廃止、多くの観光客が、地元の人が不便することになるのでは。着いてからツアーバスに乗って知床五湖のひとつを見学。海に落ちる『乙女の涙』フレペの滝も。夜は、知床第一ホテルで、北見から来た若い友人の木村志門さんと食事。

11日は、先ず浦幌海岸でカヌーを調べる。海が荒れている、とのことで諦める。オシンコシンの滝を見る。鮭鱒孵化場があり、川を登る鱒を見る。清里町の焼酎会社(町産のジャガイモを原料に『浪漫倶楽部』を生産)に立ち寄り、摩周湖の伏流水が湧いている《神の子池》、摩周湖を見て、釧路湿原で丹頂鶴を捜し、12倍の双眼鏡で見つけました。と言っても二つの動く白い点だけです。肉眼の他の人たちは、騒がないところを見ると、見付けられなかったのでしょう。この道中、エゾシカは何回も見ました。虹別は酪農の町、其処では牧草地にシカが入り、食事中。キタキツネも一回。赤ゲラも、すぐ目の前に来てくれました。羆は期待もあったのですが、残念でした。釧路の和商市場で勝手丼、更に白糠でラーメンをいただき、その夜9時過ぎに木村さんの車で帰り着きました。道央部に集中豪雨、と言うことでしたが、途中たいした降りもなく、無事でした。

出張を機に、ゆっくりして来てくださいと役員会で言われ、夏休みの気分でした。

 

 余分な話ですが、私の喜びを分かち合いたい、と願いお話しました。お許しください。

この旅では、三軒のホテルのお世話になりました。そうした機会に、いつも感じるのは、

笑顔の大切さです。はじめは、こちらも緊張しています。その時、笑顔が生まれるような会話が始まると、皆が笑顔になり、ごく自然に「有難う」、の言葉が出てきます。話が続くと、大事な情報を聞くことが出来たりもします。水曜日の朝、高橋さん一家が出発するのを見送り、ホテルの玄関に立っていると、従業員の一人が、『お連れ様は、雨の中歩いてご出発ですか』と聞きました。そして、「ご相談くだされば何とかしましたのに」と言うなり、車で出て行きました。街中のバス乗り場まで送ってくださる、とのことでした。お客さんと従業員という関係ではなく、有難う、と感じ、感じさせる笑顔があると、約束外のサービスも生まれます。笑顔と感謝は拡大再生産されるものです。

 

 

本日の聖書は、譬え話ではありませんが、ルカ福音書特有のものです。

ベタニア村は、エルサレムから山ひとつ、越えた辺り、と考えられています。   

「ヨハネ11では、エルサレムから東へ25丁(原文は15スタディオン、2,7キロ)オリブ山の南東麓に建てられた村。ラザロの名にちなんでエル・アザリエと呼ばれ、現在は人口700人(50年前のこと)。主として回教徒・イスラムである。住民は魔よけのため、魔が恐れるという青色を入り口の鴨居に塗り、室内の壁には青色の手形をやたらにつける習俗を守っている。」(この項、馬場嘉市)                                                                                

ここには、1951年に発掘されたマルタとマリアの家の跡があり、フランシスコ会の美しい『ラザロ教会』が建てられている。その近くには、岩床掘られた地下洞窟にラザロの墓がある。青い塗装に触れる学者は少ないし、的外れになっていることがあります。今でも中近東の町には青色に塗られた家を見ることが出来ます。特に玄関や窓枠を青く塗っています。これはイスラムであることの徴であって、美的センスではないそうです。             

                                         

マルタとマリアの姉妹は、ヨハネ111以下にも登場します。其処に登場する兄弟ラザロについては語られないのはどうしたことでしょうか。福音書記者にとって、ここで伝えようとすることとは関係を認めないからでしょう。譬え話で「削除と集中の原則」がある、とお話しました。出来事を伝えるときにも、同じ原則を用いているようです。ここはマルタとマリアの出番。ラザロには全く違う出番があります。ラザロは削除、姉妹だけに集中。

                                               

姉のマルタはもてなしを担当、妹のマリアは客人・イエスの傍らで話を聞いています。

マルタは、イエスに不満を漏らします。「私だけが働いている。手伝うように言ってください。」不公平、不平等と言うことでしょうか。

 風習が違うのかもしれません。お客様が来たとき、お相手をする者、お茶などの仕度をする者に分かれるのは当たり前、と感じます。

もう一つ、お客様に、このような不満を漏らすのは、よほど親しい間柄なのでしょう。それにしても甘えがある、と思います。

 さて、このマルタ、マリアの問題、或いは同様な関係は、教会の中でもよく起こります。

表面化しないこともあるし、現れてくることもあります。一般的には、働きは分け合い、担い合いましょう、となります。

ある地方教会の牧師は、青年達を良く育てました。「君達は、やがてここを出て他の教会に所属するようになるだろう。その時、その教会でなくてはならない働き人になりなさい。」

この言葉で育てられ、よい働き人、奉仕者が生まれました。素晴らしいと思いました。

よく出来る人たちです。仕事が其処に集中します。お願いしまーす、と言って帰ってしまいます。独占したら、なくてはならない人になる。それでは困ります。

この牧師は、独占を教えたのではなく、共有することを教え、下支えすることを教えたのではないでしょうか。人が持っている気質の違いかもしれません。

ある学者は、このところに『気質の違い』、という題を付けました。しかし、主イエスはそうは言っていません。それは一部のことであり、主題とはなし難いものです。

 

42節には問題があります。写本の違いです。あるものは「必要なものはひとつである」他のものは「必要なものは僅かだけ、あるいは一つしかない」となっています。

主が言われる「必要」とは何でしょうか。マルタは、女主人としておもてなしを充分に、と考え、多くの料理を作っているのでしょうか。それでもおもてなしにもいろいろあるはずです。暑い渇いた日のもてなし、寒く湿った日、遠くからの客人へのもてなし、など様々です。料理に限ったものではないでしょう。

 

僅かしか必要でない、ということもたった一つだけしか必要ない、という意味でしょうか。おそらくここで告げられようとしているのは、本当に必要なことは食卓に乗せる料理ではなく、神のみ言葉こそ本質的に必要なものである、ということです。私達が生きるのは、パンだけによるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によるからです(申命83、ルカ44、ヨハネ627)。                                                                                                                                                                                                                        

イエスは、この直前、神の言葉を聞くことが出来ずにいる、聖書に通じた一人の男、聖書の専門家に会いました。問答の中で、彼に「サマリア人の譬」を語りました。

いまや、イエスは、もてなしに忙しくて、言葉を聞かない女のもとを訪れたのです。

 

イエスは、仕えるために来られたのだから(マタイ2028と並行箇所)、彼のそのみ業を受け入れる者こそイエスを完全に敬うことになります。ここでマリアがしているように、イエスに聴く時、人はイエスの奉仕を受け入れることになります。

 

何時、何をなすべきかは、世俗的・一般的にはバランスの問題でしょう。能力や向き・不向きなど、また様々な事情によって振り向けられることが多いようです。

信仰的には、霊的識別力の問題です。祈りによってのみ見極められます。

それぞれは、自分自身のうちに神から与えられた力を持っています。それを見極め、自分の成すべき務めと思い定め、邁進すべきです。そのことを評価してくださるのは主なる神だけです。他人の評価、認められることを気にしないほうがよろしいでしょう。認められることは確かに嬉しいことです。然し、其処には罠があります。なんだか自分が偉い人になったかのような錯覚に陥るのです。仕える者になり続けることを忘れてしまいます。

「役者と乞食は、三日やったら止められない」と昔から言われてきました。今は、政治家も加えるべきでしょう。他の人に支えられる存在ですが、そのことを忘れて偉い人になってしまえるのです。

 

そして、決定する大きな要因は愛です。「動機は愛か欲か」。そのことにより、他者を生かすことが出来るか否か。

 

主はこの事に関し、明確な指示を出されません。マリアよ、手伝いなさい、と言わない。

良い方を選んだ者から、「それを取り上げてはならない」これが主の言葉です。

ヤコブ31「私の兄弟達よ。あなた方のうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも厳しい裁きを受けることが、よくわかっているからである。」

この教師は、ヤコブ同様、教会内で指導する者たちのことです。現代の教育に従事する人々のことではありません。それでも内容的には、共通しています。常に働き続ける、仕える、与える。それでもなお、この職を選び取るなら、それは恵みであり、その大きさに従って責任も大きくなります。

なろう事なら、静かに御言葉に耳を傾け、学ぶものでありたい。

それを決めるのは主なる神であります。主が与え、主が取られるのです。

与えられた力に応じて生きて行きましょう。

 

 

 

 

 

時を見分けるものは誰か。時の主は誰なるか。

 

すべてのことに時あり、期あり(コヘレト31以下)

 

2014年9月7日日曜日

行ってあなたも同じように


[聖書]ルカ102537
[讃美歌]507,12,474、
[交読詩編]40:2~12、

 

ルカ福音書は、他の福音書には見られない特有の譬話を持っています。

愚かな金持ち12章、失われた羊・銀貨・息子たち15章、

不正な家令・金持ちとラザロ16章、パリサイ人と収税人18章、ミナ191227

そして、先程、お読みいただいたのは、《善きサマリア人の譬》Good Samaritan

大変よく知られています。ルカは、10章から19章にかけていくつもの譬を配列しました。

マタイ・マルコにもありますので、大小長短合わせて60篇の譬になります。これらによって、イエスは、譬の名手、という評価が定まっています。

こうした箇所を話すことは難しい。話し手も聞き手も、ああ、わかっている、あれだろう、とばかりに多寡をくくる。そういう姿勢は良くない、と言っても、そうではないことを話せるか。難しい、とりわけ自分程度の能力では。

 

 譬は、どのように語られ、聞かれてきたのでしょうか。

はじめ主がお話しになられたときは、譬についても、解説しておられます。第8章『種を蒔く人の譬』です。譬を用いる理由は、ある人々には、解り易くなるだろうが、ある人々にとっては、真理が隠され、解らなくなるためなのです。ということでした。

譬の研究は、解らない、隠されている秘密を探し出そうとすることから始まりました。

 

古代の教会では、譬の細部に、多くの意味を見出そうとし手研究の歴史が始まりました。

イエスが譬を話したその時代に、その背景の中に戻してはどうか。

背景とは、「神がその民を訪れ贖われた、神の偉大な終末的行為として理解されるイエスの伝道である。」AM.ハンター、55p

すると、主御自身が伝えようとした目的、内容が明らかになるはずだ。

殆どの場合主は、ひとつの譬においてひとつのことを語っておられる。

其処では、譬の細部は物語を造作するための舞台であることがわかるだろう。

 

今風の言葉で言い直してみましょう。譬は、そのとき、その場で、その人たちに向けて語られたもの。その場で、直感的に理解されるもの。詳細な研究から生み出されるような、細部に関する特定の深い意味はありません。よく言われます。ルカ8章で、種まく人の譬が話される。話し手、聞き手が目を上げると、向こうにその種蒔きの光景が、実際に広がっていたのではないでしょうか。それほど、具体的、実際的であり、頭の中でこしらえたものではありません。

 

古代の解釈の実例をご紹介しましょう。

オリゲネス(185254年)、アレキサンドリア、神学校長、説教家。

聖書には少なくとも三つの意味がある。人間が体と魂と霊であるように、どの聖句も、字義的意味、道徳的意味、および霊的意味を同時に持つことが出来る。

 強盗どもの間に倒れた人はアダムである。エルサレムが天を意味するから、旅人が向かって行くエリコは世界を意味する。強盗どもは人間の敵、悪魔とその手先である。祭司は律法、レビ人は預言者を代表する。善きサマリア人はイエスご自身である。傷ついた男が乗せられた獣は、堕落したアダムを負うキリストの体である。宿屋は教会、デナリ二つは父なる神と御子、サマリア人の再訪の約束はキリストの再臨である。ハンター33

見事です、芸術的といっても良いでしょう。どう言っても面白いですね。面白い

 

アウグスティヌス(354430年)は、その上を行きます。

傷ついた旅人は、その神認識のゆえに半ば生き、その罪への隷属のゆえに半ば死んでいる堕落した人間である。彼の傷に包帯をすることはキリストによる罪の抑制で、油とぶどう酒を注ぐことは、よき希望の慰めと活発な業への勧めである。宿屋の主人は微行をやめれば、使徒パウロであることが示される。デナリ二つは愛の二つの戒め(神を愛せよ・申命65、隣人を愛せ・レビ1918)であることがわかる。 ハンター35

   

パウロは、律法全体が隣人愛というテーマに要約されることを述べています。

(ローマ1389、ガラテヤ514

 

 その後、長い研究の歴史があります。時間の都合があります。省略、またの機会を。

現代に到るまで、多くの学者は譬の主題がひとつである(ユーリッヒヤー)ことでは一致しています。然し、それが何か、と言う点では意見が分かれています。

 

律法の専門家が、イエスに質問します。一応、この人は律法を解釈する専門家、と考えられます。専門家にもいろいろあります。実践者、調査者、分析者、研究者、教育者、運営、管理、企画、広報、経理など。いつの間にか、Jサッカーの世界で考えていました。

この人が実践者ではなく、様々な解釈を研究し、教える専門家、と考えられています。

 

 永遠の生命を得る道に関する質問です。何をしたら・・・

専門家です。既に答えをもっています。何故こんな解っていることを聞くのだろうか。

ルカは、そのような疑問を持ったのでしょう。彼は、イエスを試みようとしたのだ、と書きました。

主イエスは、問い返されました。律法にはどのように書いてあるか。

答えは二つの愛の戒めです。(神を愛せよ・申命65、隣人を愛せ・レビ1918

そして、それを実行しなさい、と言われて、彼はもう一度質問します。

「私の隣人とは誰ですか。」彼は、自分が実行していないので、隣人を少しでも限定しようとしました。彼の動機は自己愛です。立場・地位・名誉などの保全が狙いです。それゆえ主は譬を以って応えます。真理を隠すような形になるのでしょうか。それとも逆?

 

 ある人、ユダヤ人です。下って行く、と言うことに「堕落」を見ていた時期もあります。

それは不用と考えます。むしろ、このエリコへの道は、険しい箇所があり、屈曲し、追いはぎ・山賊の類が出没することでよく知られています。どのような事情があったのでしょうか。単独は危険です。隊商を組む、護衛を伴うことをしなかった。自己責任を果たしていません。

こうした事情を、主は少しも語ろうとしません。イエスの譬の凄みは、話の適当な速さ、スピード感にある、と感じます。それを損なうような細かなことは、大胆に切り捨てます。聞き手が関心を持つだろうことであっても、通過されます。削除と集中の原理と言いたい、と考えています。

「半殺し」、おそらくユダヤ人が教えられている血の流出がある状態です。血は命、生命が流出しています。血に触れることは汚れることでした。

 

 通りかかったのは祭司。聖なる仕事に携わります。聖なる状態でいることが求められます。身を清く保つことは義務でもあったはずです。レビ人、彼も祭司のもとで神殿の礼拝に仕えています。彼らは、共に、聖なる勤めを選び取りました。神と民衆への義務を果たしました。倒れているユダヤ人同胞の姿に、罠を感じたかもしれません。善意で助けようとしたところを隠れていた賊が襲う、ということは普通だったようです。

主イエスは、この二人に関して淡々とその行動を語られました。それに対する評価はなされていません。非難もしていません。

 

次にサマリア人が来ました。

サマリア人は、紀元前722年のアッシリアによる征服の後に、この地を支配していた人々(とユダヤ人との)間に生まれた者たちの子孫です。彼らは、神殿とエルサレムの再建に反対し(エズラ425、ネヘミヤ219)、ゲリジム山の上に自分たちの礼拝の場を設けました。サマリア人は、(正統派ユダヤ教の)儀式からすれば不浄な存在であり、社会的には見棄てられたものであって、宗教的には異教徒になっていました。

よく、犬猿の仲、と言われますが、それは対等の立場に立って喧嘩していることです。

然し、ユダヤ人にとってのサマリア人は、それ以前の関係です。サマリア人を人間以下のもの、汚れたもの、インドでの不可触賎民のように扱いました。彼らの住む土地には足を踏み入れない、ということもありました。エルサレムからシリアのダマスコへは、ダマスカス門を出て、北へまっしぐらに進むのが近道です。ところが、その途中にサマリアがあります。熱心なユダヤ教徒は、この道を行かず、西の方海岸沿いか、東の方ヨルダン川の向こう岸を進んだものです。

 

このサマリア人は、汚れも危険も知っているはずです。一人で来ています。急ぎの仕事があったかも知れません。祭司、レビと余り変わらないのですが、大胆かつ丁寧に、徹底的にユダヤ人のお世話をしました。

ずいぶん昔のことになりますが、三浦綾子さんの対談を『信徒の友』で拝見しました。

うろ覚えですが、人に親切にすることについての話となり、三浦さんは裏切られたことがない、と言い切ります。そして、親切は徹底的にするべきです、裏切られるのは親切が不徹底・中途半端だからです、とその中で語っておられました。このサマリア人から学んだこと、とも仰っていたように記憶します。 

 

イエスは、律法学者の質問に答えていません。お答えにならない、ということが真理

なのです。真の愛、イエスの理解するアガペーは、制限を求めず、ただ機会だけを求めます。律法学者の、自己正当化のための問には答えません。

このことをハンター114は、次のように書いています。

「混血の異教徒のほうがユダヤ民族の柱石よりもよく神の律法を履行している。友よ、これが隣人愛というものである。もしあなたが永遠の生命を望むならば、こういう行為を神はあなたに求められるのである。」

 

すべての人間は、神の手によって造られたものです。神はそのお造りになったものを等しく愛されます。その故に人は愛を知り、互いに愛し合うことが出来ます。其処では自己正当化も、隣人の限定付けも無関係です。

 

キリスト教倫理としては、このように考えればよいのだろう。然し、主イエスが譬によ

って福音を話されたとしたら、どこに良い知らせがありますか、と問い返したくなります。譬によって福音の真理は隠されたのではないでしょうか。解りにくくされている。

福音は、分け隔てなく神の愛が注がれていることでしょう。