[聖書]ルカ11:Ⅰ~13、
[讃美歌]507,430,497、[交読詩編]112:1~10、
ルカ福音書では、弟子達が「主よ、ヨハネが弟子達に教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と願い、主がその求めに応えて教える、という形になっています。
ルカは、マタイが伝えるものよりだいぶ短くしています。次の三行を欠いています。
みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、 限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。
三行目は、頌栄と呼ばれますが、マタイ福音書にもありません。信頼できる写本が、これを欠いています。これは問題にしなくてよいでしょう。
他の二行は、神が地上に良い介入をするようにという願いです。不可解です。
ことによるとルカは、医者・科学者として自己責任の道を選ぼうとしたのかもしれません。
実はもう一点、見られない部分があります。「天にまします我らの」がありません。
パテル ヘモーン エン トイス ウーラノイス
この祈りが、個人のものではないことを示す大事な部分です。後半部分は、「わたしたち」になっています。それで充分かもしれませんが、父なる神への讃美を共有する、分かち合うことは大切だ、と思います。それの神の所在を「天」と呼ぶ。いいなあ。
これは、ルカ11:2~4にはマタイ6:9~13が、ルカ11:9~13にはマタイ7:7~13が、並行箇所とされています。ルカ11:5~8は、他の福音書には見られません。
マタイでは、主がご自分で語り始め、教えられます。主が教えたもう祈り、としてよく知られ、暗誦され、世界中の教会で、信仰者の間で、共有の財産として大事に用いられています。ローマ教会では、主祷文と呼ばれます。ギリシャ(ロシア、日本ハリストス)正教会は、天主経と呼びます。訳文の違いはありますが、内容は同じです。
最初の一行は主への呼びかけ。次の三行は神に関する祈り。続く三行は人間に関する祈り。
非常にバランスよく整えられた祈りです。礼拝祭儀のため、と考えられています。
エルサレムには、たくさんの遺跡があり、聖書に由来する教会もあります。その一つは、東側、黄金の門の向かいにステファノ教会があります。諸聖徒の教会、とも呼ばれています。殉教者ステファノに捧げられた教会堂です。世界中の国々、民族の言葉で書かれた「主の祈り」が、回廊の壁を飾り、世界平和を願っています。
なお、最後の頌栄とアーメンは、最古のギリシャ語写本には見られないので、後世の付加によるものと考えられています。ローマ教会、聖公会は、この箇所に関しては聖書に忠実です。基本的に祈祷文からはずしています。
プロテスタント教会は、原文がこれを欠いている事を確認した上で、伝統的にこれを用い、讃美・頌栄で終始する形を整えてきました。
祈りの内容に触れて行きましょう。はじめは主なる神を讃美する言葉です。
「父よ」、天地の内なる全てのものを作り、それを維持し、守られる神であるゆえに、父よ、と呼びかけます。万物の始原を指す言葉です。
同時に、父の慈愛を指し示します。その故に、子なる私たちは甘えた祈りも許されます。
その事は、5~8節の譬で説明されます。
「御名が」、古代世界では、名は体を顕す、と考えられていました。名前には実体が伴う、という考えです。「崇められる」は、聖とされますように、を意味します。神が、本当の意味で神とされる。神として讃美されますように、との祈りです。
「御国が来ますように」、御国に関しては、マルコ1:15を読みましょう。
『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』
あのところで、繰り返し教えられることがあります。国とは、領土のことではありません。
主権のことであり、ご支配を示すものです。神の主権による支配が、限りなく接近しています。方向を変えましょう。これがマルコ福音書です。
ルカの主の祈りでは、あなたの愛によるご支配が、この地上に、私たちの間に成就しますように、という祈りです。私たちは、思いがけないほど様々な、多くの力の支配を受けているのではないでしょうか。〔イスラム国〕の脅迫を聞くと、私たちの生命が脅かされている、と恐怖を感じます。そして、彼らの言うとおりにしたほうが安心だ、と考えないでしょうか。その時、あえて、近づいている神の支配を受け入れる方向に変わるのです。
「必要な糧を毎日与えてください」。文字通りには、パンを求めます。
天上の神への祈りと、地上の私たちの祈願を結びつける役割があります。天地をつなぐ橋掛かりといえるでしょう。
出エジプトのとき、食べるパンがなくなったイスラエルは、呟きました。与えられたのは、コエンドロンの実に似た白い、蜜のように甘いものでした。朝ごとにその日の分を集めるように命ぜられました。明日のために備えようと考えても、それは融けてしまいました。神は、その日その日をお守りくださいます。出エジプト16章、
鶉とマナを降らせたもうた主なる神・ヤハウェへの信頼があります。
必要なもの以上に願っても与えられません。
「罪を赦してください」
罪・ハマルティア、的を外すこと、方向違い、神のみ旨に反する事を指します。
意識していることもあり、無意識に行っていることもあります。
イエスの十字架は、罪の赦し(贖罪)のためである、と語られる。
それにもかかわらず、何故、赦しを求めて祈るのだろうか。
父への甘えの顕れ、なお祈り求めることが許されている。私たちの罪は、赦されてもなお祈らざるを得ないほど大きく深いものだ。
「わたしたち」と祈るのは何故か。
個人的な罪であっても、それは決してひとりで犯されるものではない。
その罪が犯されるのを見ていたものも居る。この祈りは私的、個人的なものに留まりません。公的、共同体的、教会的な祈りであることが示されます。神の国の到来を求める祈り。
「負い目ある人を皆赦します」
負い目とは、いわば借金、債務のこと。私に対し借りのある人のそれを帳消しにしますから、と言っている。
ルカ福音書19:8では、ザアカイが言います。
「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
ことによると、帳消しだけではなく、それ以上のことが意味されている可能性も考えられます。
「誘惑に遭わせないでください」
この誘惑は、ダイエット中にもう少し食べてしまえ、と言うようなものではありません。
罪へのいざない、神のみ旨に反するように誘惑することです。祈るとき、神を自分の思い通りにしようとすることも、誘惑です。神を従わせる、凄いことです。こうした誘いは、親しい、信頼する友人から来るものです。力ある者に与えられる試練です。
私たちの祈り、わたしが主となって、神を僕として、言う事を聞かせようとする。
韓国・ソウルのヨイド広場、大教会があります。その大牧師の書いた本、「できるだけこまかい事まで願いなさい。そうすれば叶えられます」。詳細なことまで告げれば、神は聞いてくれます。いかにして神を私の言うがままにするようにするか。
私たちは、神様が私の願いをかなえてくださることを、喜びはしません。
思い通りにならない、苦しいことにぶつかる時にこそ、神のご計画に従っている、と知り主なる神を賛美するでしょう。
この祈りを教えるに当たって、神が私たちの思い通りになる、とは語られていません。
父親は、子どもに良いものを与える。まして天の父は求める者に、願い求める以上に良いもの、即ち聖霊を与えてくださる。
良いものとは、神の力である聖霊なのです。神は、新しく生きる力を与えてくださいます。
主の祈り
天にまします我らの父よ。
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みに会わせず、 悪より救いいだしたまえ。
(網掛け部分を、ルカは除外している。)
これを知らなかった、という可能性は低い。
資料になかった、としてもマタイによって補足出来たろう。
意識的に、これを加えなかった、と考えられる。
どのような考えがあったのだろうか。