2014年10月26日日曜日

教会の伝統|創立50周年記念礼拝

[聖書]マタイ281620
[讃美歌]475、431、27
[交読文]46編1~12節


創立記念礼拝は、他の牧師にお任せして伝道集会にしたほうが良い、と考えていました。

しかし準備を担当した委員達は、主任者が説教するように、と言うことでまとまりました。

よい機会が与えられた、と感謝すべきでしょう。思い切って自分の考えをお話しすることにしました。とは言うものの、礼拝説教です。講演会ではありません。その制約の中で、お話させていただきます。

 

先ず、はじめに、エミール・ブルンナー(18891966年)のことをお話させていただきます。スイス出身の神学者、1942年にはチューリッヒ大学の学長になります。バルト、ブルトマン、ブルンナー、三Bと呼ばれることもあったようです。晩年、1953年から国際基督教大学で教えながら、日本の教会、とりわけ無教会を研究されました。その頃、ICUには神田盾夫教授、早稲田大学には酒枝義旗教授が居られ、いずれも無教会派でした。お二人がよい案内役になったようです。研究の成果はいろいろあったようです。無教会を高く評価された、と伺っています。病を得て、1955年帰国されました。

チユーリッヒ近郊の街ヴィンタートゥールで生まれる。チューリッヒ、ベルリン、さらにニューヨークのユニオン神学校で学ぶ。

8年間の牧会生活の後、1924年からチューリヒ大学神学部で組織神学、実践神学の教授を務める。また、1942年から1944年にかけては、同大学総長も務める。

キリスト教の布教の不徹底が日本におけるファシズムの勃興の一因だったと考えて日本に赴き、1953年から国際基督教大学の教壇に立つ。そして日本で無教会主義の影響を受けた。本人は永住も覚悟した日本移住だったが、健康を損ねてしまったため、1955年に帰国した。

その後、病のために自らペンをとる力を失いながらも、テープレコーダーを用いながら著述を続ける。

1966年、死去。

 

成果のひとつに数えられているものの一つが、『教会の誤解』と題された書物です。酒枝教授が翻訳されました。待震堂から、1955年出版され、1983年には第三版が出されています。キリスト教書としては売れたし、読まれたほうです。話題に上がることは少ないようですので、大学のテキスト、副読書などに挙げられたのかもしれません。題に惹かれて読み始めました。途中で放り出しました。それでも一文が記憶に残っています。

「すべての教会は、常に形成途上にある。あれこそ教会、これが教会というようなものは存在しない。」

この文章に出会ったから、満足して放り出したのかもしれません。

教会のあるべき姿を求め、それを基準として、自分たちの教会を測り、目指す形を思い定めようとする、こうした伝統的教会像を峻拒された、と感じます。

 

ブルンナーの次の世代の説教者、聖書学者クラドックは、次のように書きました。

私が、神学校卒業後、長年教えていただいた木下順治先生は、クラドックの著書をよく引用されました。ルカ113754の註解(1990年)、2634p

「イエスは、制度化された宗教に非難を浴びせかけるようなアウトサイダーではありません。むしろ彼は、自己を絶対の存在としてしまった宗教に対して、鋭い批判を行う者です。

その宗教は、命のために与えられた原理を、息苦しさと審決をもたらす規則へと硬化させ、敬虔さを計量化し、その本質を失い、要するに自己批判能力を失ってしまっているのです。不断に自己を向上させ、自らを正すということをしないと、あらゆる宗教の構造は、偶像崇拝へと堕落してしまいます。」伝統墨守は偶像崇拝につながる、と言う指摘です。

 

クラドックは、更に語り継ぎます(同書3867p、ルカ20919)。

「実際、かつて世界の中でヨーロッパやアメリカにとって宣教の対象地だと思われていた場所があったわけだが、今やその地の教会は生き生きとして強くなり、一方西洋の教会は確立されており恵まれはしたが、死んだ状態にあるのであって、その二つは遺憾ながら対照的な様相を呈しているのである。」

この書の翻訳者は、続けて記します(訳者あとがき、宮本あかり)。

「果たして日本の教会の実情はいかなるものであろうか。」

教会は、無意識のまま、自らを偶像とするようになります。

 

それでは、教会の伝統とは一体なんでしょうか。

一般的に伝統とは、あるものを他に伝える,または与えることで,一般に思想,芸術,社会的慣習,技術などの人類の文化の様式や態度のうちで,歴史を通じて後代に伝えられ,受継がれて行くものを言います。またある個人または集団,時代などの特性が受継がれていく場合を言うこともあります。

 

私たちにとってそれは、マタイの宣教命令です。ウェスレーも、この言葉によって自らを奮い立たせました。奮い立たせられた、と言うべきでしょう。彼は、長い間、国教会の教職として歩み続けました。他の教派を作り上げる気持ちはなかった、と伝えられます。止むを得ざる仕儀で、教派教会を立てることになりました。

いつもその根底にあるのは、全ての者が救われることでした。世界はわが教区なり。

威張るのではなく、責任を感じていたのです。

 

メソジストな生き方、几帳面と言うことです。四角四面、でしょうか?

几帳面とは、生真面目で、神経質で、細々したことも完璧にやる人の事を言う、と辞書に

あります。神経質は余分です。生真面目も不要。おおらかな几帳面もあります。

几帳面は、細部にわたり、眼が届き、定められ、求められていることに応える、優れた資

質、と私には考えられます。そういう人は、信頼されるのでうらやましく感じます。

自分は、余り几帳面ではなく、むしろルーズなほうだろう、と感じます。

 

伝統は、目標にすべきものではありません。伝統墨守となります。

これまでの伝統は、新しい伝統を生み出す出発点と考えるものです。

メソジスト・ウェスレーの大前提は聖書、マタイ福音書の大宣教命令でした。

不断に自己を向上させ、自らを正すためには、絶えず聖書に帰る事が必要です。

このことを忘れると、自らの能力や経歴、地位そして思想を絶対不動のものと考え、偶像崇拝になって行きます。ウェスレーがその出発点としたもの、目指したものを、私たちも几帳面に出発点とし、新しい伝統を目指して進みましょう。

 

 

 

 

 

一羽の雀も忘れない方がいる

[聖書]ルカ12112
[讃美歌]200,17,577、
[交読詩編]148:1~6、
 

私たちが、このところを読み始めると、直ぐにひとつのことを思い出し、苦笑いを浮かべるように思います。それは、私たちの間の内緒話のことです。

「これは、秘密だよ。君にだけ教えることだぞ。誰にも言うなよ。」

勿論、是を聞くと話したい誘惑が襲ってきます。でも、かろうじて約束を守ります。

牧師の場合は、とりわけ、職務上知りえた秘密を他に告げてはならない、という守秘義務があります。メディアの取材を受けて、協力したくても、話してはなりません。知らない、と言うか、よく知っているから話すわけに行かない、とはっきり告げると理解してくれます。

やがて、違う人が、面白い話があるから、君にだけ教えてあげよう。他に漏らすなよ。

あの秘密の話が、その人の口から出てくる。彼は、自分に話しただけではなく、他の人々にも話していたのです。大丈夫かな。

こんな経験は、どなたもなさっておられることでしょう。

 

主が、本日の箇所で話しておられることには、同じようなことが入っています。

しかし、私たちの場合は、人間の愚かさの表れのようなものです。主が話しておられるような深遠な真理であるはずはない、と考えます。

主はこのところで、ファリサイ人の偽善について語られました。偽善とは何か。

ギリシャ語聖書では、ヒュポクリシス、ヒュポクリテース、という言葉で表現します。

辞書には、次の解説がついています。

ヒュポクリシスは、演技、芝居、偽善を示す言葉です。宗教における偽善とはいける神を観客席において仮面芝居を演じようとすることであり、内のことを外のことにすりかえて形の上での手続きや仕草を完全に行えばそれでよしとすることである。

同じヒュポクリノマイから生まれた言葉がヒュポクリテース、偽善者、見せ掛けだけの人。内のこと・霊のことを外のこと・形のことにすりかえてごまかす人。仮面をつけてドラマを演じる役者。

ヒュポクリノマイ、(元来「答える」という意味から)舞台の上で台詞を言って答える仮面芝居の役を演じる。演技する、ふりをする、見せかける。

 

主は、ここで偽善に対して警告しておられます。それも、ここあそこにいる偽善者ではなく、目に見えない、自分の内なる偽善です。キリスト教徒ではないのに信じているように振舞う。その逆もあります。シモン・ペテロはイエスの弟子なのに弟子であることを否定しました。どちらであっても、仮面をつけていることです。ある場合には、教会が強い圧力の下に置かれ、危機的状況におかれたとき、迫害の時代のことです。

誰もが、神のご計画よりも自分の都合を最優先に考えてしまう時です。

第二次大戦後、世界中の学者がさまざまな研究をしました。あのナチスの狂気は何事か。
ナチドイツと一般ドイツは別個のものである、と戦後ドイツは主張しました。しかし、多くの研究は、それを否定します。マックス・ピカートは、「われらの内なるヒトラー」と語りました。エーリッヒ・フロムは「人間は自由であることに耐え得ないために、強力な権威を求め、権力に従おうとする」と『自由からの逃走』の中で語りました。あらゆる人の中に、ナチズムが潜んでいたし、いるのです。すべての人が小なり大なりカインの末裔であることは否定できません。

(これは、2005年玉出教会でなされた説教《エデンの東》の一節です。HPより)

 

偽善は、人間の恐れの感情に関わっています。私たちは、多くの事物に恐怖します。大変な不安を感じます。痛みや苦しみの予感だけで、その場から逃げ去りたくなります。誰もその場から、自分を救い出してくれる者はいない、と承知しているのです。

 

このところは、おおよそ三つに分けられています。マタイ、マルコでは、また異なった文脈の中にあります。その上、ここでも、互いの関連性が明確である、とは言い難く感じられます。それでも、どうやらこれらは、安全無事なときのものではなく、迫害の時代が想定されているようです。

数え切れないほどの群衆が集まり、彼らに語られた、ということは、時間と空間を拡張して考えることを求めているようです。イエスが立っておられるその時、その場所を、さらに拡大します。イエスに従う弟子達の時代とその後の教会の上京。宣教の時代。

それは、弾圧と迫害、殉教の時代でもありました。数え切れないほどの群衆は、ここにも、あそこにもいたのです。

 

その頃、仮面をつけた者も多くいました。信者の仮面よりも、弟子ではないと見せる仮面のほうが、都合よかったかもしれません。主は、それらすべてをご存知であったように、すべての者に対する警告と約束が語られています。

失意・失望と不安・恐怖は確かにあるでしょう。信仰は、万能の痛み止めではありません。鎮痛剤、鎮静剤ではないのです。効かないとき、利かなくなる時がくるのです。私たちの状態がそうするのです。失いたくない者が多ければ、おそらく恐怖が大きくなり、利かなくなるのです。

そうした私たちに言われます。最終的に恐れられるべきは、人ではなく、神ですよ、と。

恐れ、恐怖の反対は、信じることです。信頼することです。

雀一羽さえ、お忘れにならない神が、御自身の弟子達を心にかけてくださるのです。

厚別教会創立以来50年は、小さな存在でした。主なる神は、忘れることなく心にかけ、お守りくださり、導いてくださいました。

 

2014年10月19日日曜日

身を清くするには何を

[聖書]ルカ113754
[讃美歌]200,211,483,77、
[交読詩編]146:1~10、

 

ルカ福音書は、意外なことを、私たちに教えてくれています。

主イエスは、安息日には、先ず会堂の礼拝を守っていたようです。終わってからどうしていたのでしょうか。安息日は、労働から解放されるときです。お店はありません。自分たちで料理することも出来ません。英国、イングランド北部、スコットランドとの境界近く、東部の海岸近く、ダーラムという古い町には、サンデイ・ランチ、と言う風習があるそうです。日曜日、教会の礼拝に新来者、旅人などがあると、教会の人が自分の家に招き入れ、前日の内に用意を整えておいたサンドイッチなどの昼食を共にする信仰的な慣わしです。

 

ユダヤでも同じような習慣があったようです。主イエスは礼拝後、その地域の人に招かれておられたようです。それもファリサイ人から。律法は、旅人をもてなすことを求めます。ファリサイの人たちは律法を守ることに熱心でした。

主イエスも人々も、ここでは、何ら驚きを見せずに、招待をお受けになっています。主が罪人、徴税人の家に入れば、人々の驚きの声が記されます。ここでは何もありません。

マルコ216(ルカ52732)、レビの家で食事、ファリサイ派の学者が、なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか、と弟子達に言う。

 

ルカ736、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をして欲しいと願った。罪深い女が・・・

このくだりは、一日の最初の食事を正午に取るギリシャ的習慣が背景にあるらしい。

食前の手洗いは、律法学者の言い伝えによって定められた習慣です。

「洗う」という言葉は、両手をすっかり水に浸すことを意味しています。

 

また、ファリサイ派の人たちと常に敵対関係にあった、と考えることも難しいのです。

ルカ1331、ファリサイ派の人々が何人か近寄ってきてイエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

イエスとファリサイ派、律法学者の関係は、これまで一般的に言われてきたような、単純な敵対関係ではないようです。

 

私たちは、ユダヤ人の間に食事に関する厳しい定めがあることを知っています。

それは食材に関する規定であり、清いものだけを食べることになっています。その為に証明書があり、それを見て確認できなければ、飢え死にすることも止む無し、と考えるのがユダヤ人。

ここで問題になっているのは、食材ではなく、食事前に手を洗うことです。清い食材を正しく調理されたものでないと、どれほどおいしそうに見えても、食べる気持ちにはならないでしょう。一般的には、人は食べることに関しては、かなり保守的です。マナーとして考えても、やはりだいぶ保守だと思います。中国では大声でおしゃべりしながら、あちこち、食い散らかすのが当然とされている、と聞いても、中華料理店で日本人は静かに、綺麗に食事をしています。そうしないと、美味しく感じられないのです。

ユダヤの人たちは、掟どおりに手を清めてからでないと、そもそも食べる気にもならないのではないでしょうか。それでも、航空機の機内食の場合、コーシャ料理を提供され、食べ始めたユダヤ人のカップル。彼らが、手を洗うことはなかった、と記憶しています。

おそらく、旅行中は免除されているのでしょう。

 

 食前に手を洗うことは、きわめて厳格な形で、儀礼化されていました。

使われる水は、卵の殻一杯半、水は指先に注がれ、手首へと流れさせる。次にそれぞれの手の甲が、こぶしをこするようにして清められるようにする。最後にもう一度手に水を注ぎかける。今度は、手首から始めて、指先へと注がれる。

 律法学者により作られ、磨き上げられたこの決まりを、ユダヤ人達は厳しく守っていました。そのことを止めなさい、とは言われません。主は、同じように心を清めることに熱心になりなさい、と指摘されます。

 

 イエスによるファリサイ人への批判は、大きく三つに分けられています。

第一は、律法の詳細な規則に細心の注意を払う一方で神の義と愛とを無視すること。

第二は、席への関心とプライドにむやみに執着すること。

第三は、埋められた墓のように民の生を隠れて汚す存在であること。

 

 イエスは、次のようなことで律法の専門家を批判します。

第一は、他の人々には重荷を負わせているのに自分には免除を求めること。お手盛り。

第二は、死んだ預言者達を褒め称えてはいるが、その一方で彼らを殺すことに同意し、それに手を貸したこと。

第三は、彼らの生活とその教えとの間には大きな矛盾があって、そのことによって人々を混乱させたこと。

 

ルカ福音書は、イエスの時代、その聴衆だけのものではありません。

次の時代、更に後の時代の教会を意識しています。学者への言葉は、

 

イエスは、制度化された宗教に非難を浴びせかけるようなアウトサイダーではありません。

むしろ彼は、自己を絶対の存在としてしまった宗教に対して、鋭い批判を行う者です。

その宗教は、命のために与えられた原理を、息苦しさと審決をもたらす規則へと硬化させ、敬虔さを計量化し、その本質を失い、要するに自己批判能力を失ってしまっているのです。不断に自己を向上させ、自らを正すということをしないと、あらゆる宗教の構造は、偶像崇拝へと堕落してしまいます。

 

40節、ファリサイ人たちは肉体や器物を念入りに清潔に保てば神を崇めることになると信じるのだが、その時人間全体の、とりわけ心の~心の中で、人々の外的行動を決定する内的行動が起こるのだから(創世821を必ず参照)~創造者としての神を崇めねばならないのだ、ということを忘れていた(マタイ1517以下、ロマ124以下)。しかし、貪りと悪意が生活の実態を決定しているので、人々は清い心を持つことが出来ないのだ。・・・

彼らが神に仕える目的は、究極的には彼ら自身に仕えることであって、ここからは神への侮蔑さえ生まれてくる。これはレングストルフの指摘です。

 

ファリサイ人も専門の学者も、それぞれ異なる事柄を指摘され、不幸である、と言われました。しかしこれらは同根です。その心が汚れているゆえに、実に身体も汚れているままなのです。「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」創世821

この指摘は恐るべきものであり、真に良心的な、正直な者は震えが来るような感覚を覚えるだろう。私などは、よく偽る者、自分自身すら偽ろうとする者だ。それでも、究極的には彼ら自身に仕える者、との指摘には震えを覚える。

 

主イエスは、ファリサイ人や学者、専門家に対して、もう一度悔い改めることを促しておられます。ことによると、彼らはこれまで本当の悔い改めを経験していないのかもしれません。しかし彼らは、民から尊敬されることを断念しない限り、悔い改めを迫るイエスの言葉に従うことは出来ません。この断念を彼らは決して欲しないでしょう。それゆえイエスに対する憎しみが燃え上がります。

昔から、役者と乞食は三日やれば止められない、と言われてきました。役者が河原乞食と呼ばれた時代でもそうでした。注目を招く、拍手喝采を受ける、ご祝儀・鳥目をいただく、他のことに換えられないのです。辞めた次になすべきことが用意されていなくては、辞めるにやめられないことも事実でしょう。

主イエスに結びつくことで方向転換が可能になります。行く先、なすべきことも、主が用意してくださいます。いつも主は共に居て見守ってくださいます。

安心して悔い改めてください。私などもそうして歩んできました。後悔はありません。

2014年10月12日日曜日

悔い改める者は幸いである

[聖書]ルカ112736
[讃美歌]200,358,502、
[交読詩編]43:1~5、

 

19世紀後半、ロシアの文豪トルストイは、マタイ57章、山上の垂訓さえ残れば、聖書の他の部分が全て失われても差し支えはない、と言ったそうです。彼の思想は、キリスト教(的)博愛主義と呼ばれます。広大な領地を受け継いだロシア貴族、伯爵は小作人・農奴と共に生きよう、と考えたようです。世界中から注目されました。日本でも、華族の一員である武者小路実篤さんが共感されて、二箇所に『新しき村』を造りました。日向と埼玉・毛呂山。既に九州は廃止されたようですが、埼玉は後背地東京の消費動向にマッチしたため、続いている、と現地の村人から聞きました。それから30年、どうしているでしょうか。自他共生の精神を守っているでしょう。しかし高齢化の波は、どのような世界にもやって来ます。生活の仕方を根底から変えなければならないのでしょう。

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ182899 - 19101120日は、帝政ロシアの小説家、思想家である。ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと並んで19世紀ロシア文学を代表する文豪。英語では名はレオとされる。

1905年、十月革命、戦艦ポチョムキン、9月日本に敗戦。  1906年、国会開設

1914年、第1次世界大戦に参戦(日露戦争は1904・明治372月~19059月)1917年、二月革命(ロシア革命)、ロマノフ王朝崩壊

代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。

 

トルストイの時代背景がそのように言わせた、という面があるでしょう。帝政ロシアの末期、日本では維新前。西欧諸国は産業革命の結果、植民地獲得を競い合っていました。そうした中で、西欧列強は日本の開国を迫りました。対応次第では植民地となっていまし。

 

トルストイによれば、ルカ福音書は、山上の教え以外のものですから、すべて無価値であることになります。

ルカ福音書には、平原の説教と呼ばれるものがあります。61749

其処では、苦しみを受けている人々こそこの教えを聞く者であるとされます。

そして、イエスに従う者は、報復するのではなく、愛や赦しや寛大さという神の国の原理に従って、行動すべきことが語られます。トルストイに相応しいかな。

 

人は、多くの場合、徴を求めます。シンボル、サイン。隠されているものを指し示す明らかな印。これでもわかり難い。山を歩くと、生き物がいるしるしを見つけます。

丸くて黒いころころしたもの、ウサギや鹿の糞。鳥の羽などが、生き物のしるしです。海では、鳥に魚群の印を見る。目に見えないものは、その存在そのものを信じることができない。信じるためには、そのものが存在するしるしが欲しい。しるしがあれば信じます。

これが私たちの一般的な考えではないでしょうか。

 

Ⅰコリント122「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」これは伝道者パウロの言葉です。

 

人間に絶対はあり得ません。人は皆罪を犯します。

正しい人はいない。一人もいない。「義人なし、ひとりだになし」ローマ310

「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思い図ることが、いつも悪いことばかりである事を見られた。」創世記65。これは、おそらくJ資料です。

「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。」創世記611

 

J資料は、ダビデ・ソロモンの時代のもの、と考えられています。この頃は紀元前10世紀、イスラエル王国は周辺諸国の弱体化に付け入るように勢力を拡大し、その繁栄を楽しんでいました。J資料の記者・編集者ヤハウェストは、繁栄するイスラエル王国の唯中に、唯一神ヤハウェ見出し、それをあの創世記に託して、書き綴りました。国土の拡張、財貨の獲得、眼を瞠(みはる)ような王宮や神殿の建築、精強な軍隊組織、交易のための商船隊、これらによってイスラエルは国運隆盛を喜び、誇りました。豊かな生活を楽しみ、自分たちの力を、知恵を、信仰を誇りました。

 

イスラエルは、紀元前10世紀に王国となりました。初代がサウル、二代ダビデ、三代目がその息子ソロモンです。サウルとダビデは、熱心な信仰者ですが、ある点で対照的でした。ダビデは、悔い改める罪人。サウルは、民衆の手前、格好をつけることを大事にした。その点が、サウル王との違いです。新約学者、吉祥寺教会牧師、東京神学大学学長も勤められた竹森満佐一先生が指摘しておられます。

自分の欲することは行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。ロ-マ715

 

マタイ1240では、ヨナが三日三晩、大きな魚の中で過ごしたことが、イエスの死と復活のしるしとされます。

ルカ福音書においては、ヨナの説教がしるし。ニネベの人々は悔い改めてヨナを受け入れ、南の女王はソロモンから知恵を受けました(王上101、代下91)。従って、ニネベの人々と南の女王はイエスの聴衆を裁くのである、と言われます。彼らはヨナよりも偉大な預言者を受け入れないのだから。ここの預言者、彼は、イエスを指しています。

彼は、ソロモンよりも賢い。私達は、この方の言葉をどのように聞くのでしょうかか?

シバの国が、どこにあったのかは、これまでに様々な説が考え出されてきた。シバの国は、南サウジアラビアのイエメン地方にあったとするもの、北アフリカのエチオピア地方にあったと主張するもの、または、中東のペルシア地方だとするもの、中には、シバの国は、コモロ諸島(マダガスカル島の西に位置する)にあったとする突拍子もない説まである。もともと、シバの女王など、実在せず、聖書の中の架空の人物で、多神教の女神の化身だという説まであるのだから、どこまでを信用してよい話なのか途方に暮れてしまうのである。

 シバの女王が大量に持ってきたという瑪瑙(めのう)、エメラルド、琥珀などの宝石類は、主にアフリカ東部のエチオピアで採れ、南アラビアでは産出しないものである。しかし、乳香を産する高品質の乳香樹は、砂漠を隔てた東の国オマーンの山脈に自生するのである。こういった事実が、かつて、シバの国がどこにあったのか推測するのを曖昧にしてしまうのであろうか。

 

 イエスは悔い改めるべき真理のしるし、福音のしるしなのです。ヨナの時には、罪の宣告と滅亡が予告されました。それを聞いたニネベの民は、罪を悔い改めました。そして、ヤハウェは、予告した滅亡を思い直されました。

 

悔い改める、メタノオー、心を変える、考えを変える、人生における考え方の根本をすっかり変える、目的・意図を変える;特にnous(心、知性、理性、カルディア)を働かせて神の意志を受け入れ、キリストを自分の生活の主として受け入れるという生活態度の根本における変更をなすこと。

 

33節以下は、マタイ福音書では、別々に存在していて関連のなかった三つの言葉が、ルカによって『光り』のイメージでまとめられています。

  v33;マタイ515v3435;マタイ62223v36;マタイ

 

ニネベの人たちは、ヨナの説教を聴いて悔い改めました。聖書によって、礼拝を通してイエスと出会い、その言葉を聞いて私たちはどうしているでしょうか。唯一の神を信じる者となったでしょうか。何か他のものが、私の心の中で主座を占めていることはないでしょうか。自己中心な考え方、生活態度を根本から変えたでしょうか。

自分の正しさに固執し、知識と能力、地位と財産を誇りとしてはいないでしょうか。

ほかの人より自分のほうがまだましだ、と考えていませんか。

ほかの人が自分の言うとおりにしてくれることを、当たり前、と感じてはいませんか。

 

 悔い改めた人は、その新しい生き方が光り、輝くようになります。

 

2014年10月5日日曜日

汚れた霊から身を守る

[ルカ]111426
[讃美歌]200,402,476,77、
[交読文]96:1~9、

 

先ほどお読みいただいたのは、小見出しにある通り『ベルゼブル論争』と呼ばれています。悪霊を追い出して、口の利けなかった人が、利けるようになった、という癒しの奇跡物語です。ここで人々は、この人が話せるようになったことを、問題なく認めています。問題にしているのは、あの男イエスが、誰の、何の力によってそれをなしたのか、ということでした。多くの人々は驚嘆したようです。イエスの力を認めたくない人々がいました。イエスとは、秤の反対側に乗っているように感じている人々です。おそらくユダヤの律法に熱心なファリサイ派の人々でしょう。イエスを攻撃し、傷つけることで、自分たちの権威を守ることが出来る、高めることが出来ると考えています。彼らは、イエスが悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している、と攻撃しています。

 

イエスの反論は、内輪もめ、仲間割れ、内部抗争、分裂ということに尽きます。

そのようなことが起きれば、何処の家でも、国でも、家庭でも、個人でも成り立ちはしないことを誰もが知っています。内部から崩壊してしまいます。悪霊払いは、ユダヤ人にはなじみのこと。

イエスの業は、神の指によるものです。それは、神の国が、今ここに来ていることの徴であり、御国の顕れです。

 

聖書では、「霊」という言葉がよく出てきます。ギリシャ語ではプニュウマ。

それに対して、『悪霊』には、ダイモニオーンが用いられます。

 古典ギリシャ語では神的存在、死んだ英雄の神格化されたもの、行伝1718

 旧約では異教神、偽りの神々。

 新約では悪鬼、悪霊、死者の霊、死霊。ルカ82638もダイモニオン、ダイモニア。

ルカでは、他に43382710171332などが同じ言葉です。

ルカ72182では、プニューマ ポネーロンが用いられます。汚れた、邪悪な、悪い。

ルカ1124、汚れた霊、これは、アカサルトン プニューマ。

 

汚れた霊、悪霊は、この世にあって、この世を支配しようとする悪しき諸力です。サタンと呼ばれることもあります。

ヨブ記によれば、悪霊、悪魔は、神のみ使いであり、その支配下にある、とされます。従って、これら悪の力は御子イエスを知り、彼を避けようとします。

 

102日(木)朝9時、隣の部屋で電話が鳴る。・・・日本基督教団の教会でしょうか、

綺麗な女の人の声。聞いたことがない。大新聞の名とご自分の名を示す。

「牧師で、もちだという方がいらっしゃるでしょうか。」

はて、おかしいぞ。続いて、かつて在職していた教会の名前をあげ、よく知る役員の名前を出す。ハテさて、用心用心、プライバシイの問題があるぞ。情報を与えるよりもいただくようにしましょう。

Kさんが死んでいる姿で発見された。複数の刺し傷があり、警察が殺人事件として調べている。この人に関して教えて欲しい。」

「知的で、活発で、優しい人、お世話好きで、忠実な信仰者、教会学校教師、教会の役員も務めた。花を愛し、短歌を作り歌集を編集。人の怨みをかうような人ではありません。」

 

その後、複数のテレビ局の記者からも。ネットで確認することにしました。地名、人名は削除しました。

「1日午後、某所の民家で高齢の女性が倒れているのが見つかり、午後5時半ごろ、搬送先の病院で死亡が確認された。腹部には刺されたような傷が数カ所あり、警察本部は殺人事件とみて捜査を始めた。

 署によると、住人のKさん(86)と連絡が取れなくなっており、身元を調べている。女性は1階の居間であおむけに倒れていた。家に鍵はかかっておらず、室内に物色された形跡はなかった。

 午後440分ごろ、男性の声で「高齢の女性が倒れている」と110番。通報後に立ち去ったとみられ、署が行方を捜している。

 現場は南海本線駅から北東約500メートルの住宅街。」(共同通信)

 

ある報道は『黒い天使が舞い降りた』と見出しを付けている。聞いたことがありそう。

ネットで検索してみると、人気コミックの題名でした。復讐を目的とする暗殺者達が、黒い天使。もっと古い小説のもじり、と感じます。記憶の底を探る。あった、あった、これに違いない。イギリスの小説、映画にもなっている。どちらも見ていない。

 

『鷲は舞い降りた』(わしはまいおりた、英: The eagle has landed)は、著名な英国人作家ジャック・ヒギンズ による冒険小説。邦語訳198010月。早川文庫、

第二次世界大戦中の英国東部、ノーフォークの一寒村を舞台に、英国 首相ウィンストン・チャーチルの拉致という特殊任務を受けた、歴戦の勇士シュタイナ中佐率いるナチス・ドイツ落下傘部隊の精鋭たち。その使命は、ここで週末を過ごす予定のチャーチル首相の誘拐だった! イギリス兵になりすました部隊員たちは着々と計画を進行させていく…使命達成に命を賭ける男たちを描く傑作冒険小説

同名の映画は、1976年のイギリス作品。ジョン・スター ジェス監督の遺作でもある。

ヒトラーの思いつきでチャーチル誘拐命令が出てから、計画立案、実行、失敗 までの物語。それぞれのキャラクタが作り込まれ、生き生きと描かれていて魅力的。

 

黒い天使も鷲も暗殺者たち、誘拐者たち・侵略者達を指しています。新聞の見出しとしては、あまり感心しません。特定のイメージが強すぎます。警鐘の意味があります。

私たちが、油断していると、容赦なく非道な力を振るうものがいるのです。

悪霊は、私たちが考えもしないような人の中に入り込み、支配し、暴力を揮いました。

私たちの周囲には神の恵みが満ちています。同様に悪霊も満ちています。私たちを支配し、他の人たちに悪い力を及ぼそうとしています。

 

「実際、邪悪な霊を追い出すことに余りに高い価値を置くべきではない、とイエスは言っている。邪悪なものを拭い去って、そのあと良いもので生活を満たすということをしないと、更に多くの邪悪が戻ってきて、最終的な状態が最初の状態よりも悪くなるのである。

空っぽな生活というの、空っぽな家のように、侵入者を招くのだ。」クラドック

悪事を働く者が、再犯を繰り返すことが多いのは、ここに理由があるのでしょう。

 

私たちの中から邪悪な者を追い出し、追い払うことに成功した、とします。その空いたスペースはどうなるのでしょうか。空っぽのままにしておくのでしょうか。それでは、せっかく追い出した邪悪さんに、ここに大きな空室があります。お友達をたくさん連れてきてください。歓迎しますよ、と言っているようなものです。

 

最も重大な危険は、防衛の意識の欠如なのであり、或いは傲慢さかもしれません。

ここは安全だ、大丈夫だという思い。自分は間違っていない、確実だ、学問研究の実績がある。自分には能力がある、と考える人が危険にさらされます。そのことに気付かないから、更に危険が増します。

確かに、私たちの周囲には、黒い天使が徘徊しているようです。身を守るためには、聖霊に入ってきていただくことです。満たされなければ、悪霊には対処できないでしょう。

 

イエスに対する反応の中には、好意的なものもありました(2728節)。すべての人にとって、神の言葉を聞いて、正しく理解し、それを行うことが祝福となります。

善きものを与えたまえ、聖霊を満たし給え、と祈り求めることが許されています。

 

主よ、御言葉の伝達者として、この僕を御霊によって満たしてください。