2015年2月22日日曜日

神の国はいつ来るのか

ルカ172037
[讃美歌]361,11,577、
[交読詩編]66:1~20、

 

219日は、今年の『灰の水曜日』Ash Wednesdayでした。この日から主日を除いた40日が四旬節です。旬という文字は10日間を指します。主日を除く意味は、この日が、主の甦りを記念する日だからです。四旬節自体は、主イエスが受けるみ苦しみを覚え、自分の罪を悔い改め、祈る期間です。甦りは、歓喜のときです。

この期間をどのように過ごすか、どのように過ごせば主の受難を深く味わうことが出来るか、昔から考えられ、実践されてきました。

 

この期間を受難節とも呼びます。これは英語でLentと言い,そのまま日本語としても使われてきました(レント)。Lentは断食を意味する昔のゲルマン系(古ドイツ語)の言葉から今の英語になったものです。キリスト教が北方のゲルマン系民族に接した時,受難節が断食の期間であることから断食を意味する彼らの言葉を用いたものと思われます。イースターが英語圏を中心とした呼称と同様,レントも英語圏中心です。ラテン語圏の国を初めその他の国々では40を意味する言葉で呼ばれています。訳して四旬節

ラテン語でQuadragesima,イタリア語でQuarensima,

ポルトガル語でQuaresma,フランス語でCarêeなどです。

 

この期間中,キリスト教徒は,イエスの十字架上の死をしのび、 悔い改めと真摯な祈りに多くの時間を当て又,嗜好品を避け、食材にも配慮した日常生活を送ります。

 

40日間については聖書に次のように記されております。

イエスが福音を述べ伝えられる前に荒野で40日間断食され試練の時を過ごされた。

 (マタイ41,2:マルコ1章12,13:ルカ41,2節:)

モーゼはイスラエルの民と神との契約を締結した後、シナイ山に登り4040夜を過ごした。(出エジプト2418節)

預言者エリヤは40日間歩き続けホレブ山につき、神の声を聞きその使命におもむいた。

(列王記上198節)

更にはノアの洪水の出来事に関し、創世記7章では洪水が40日間地上を覆った(17節)とあります。

 

こうした事から,イエスの十字架上の死をしのび、復活の喜びを祝うまでの準備の時として4世紀のはじめの頃(ニカイア公会議 325年)から40日間が守られるようになりました。 日曜日、主の日は主イエスの甦りを祝う日であり、断食は中断されます。

 

断食はどのように守られていたのでしょうか?

時代や地域或いは聖職者とそうでない者、聖職者でも修道僧とそうでない者、様々な形で守られてきたようです。

レント期間中、週に12度のみ食事をするとか24時間以上何も食べないとか、厳しく律するところもありましたが、一般的には,太陽が昇っている間は食事をせず、日が沈んで夕食を取る一日一食が普通でした。イスラムの断食は今でもこのようにされています。

しかし時代の経過と共に食事の時間がだんだん早まり中世の初めには昼に食事をとることが許されるようになり,或いは肉体労働者には断食が免除されるとか又疲労を回復する為に途中で軽食を取る習慣も許されるようになり数世紀前から、食事の内容(食材)を制約する他には日常通りの習慣になったようです。

 

レント期間中の食材については,生命を持つもの即ち肉類,魚類はいっさい駄目で固いパンだけと言う厳しいものから鳥や魚は良いとする緩い規律,或いは固い殻を持つ果物,卵から生まれるものは駄目と言うような中間的なものなど様々であったようです。

しかし,一般的には肉類や乳製品,卵などをレントの期間中食べないのが普通で、その事から,こうした厳しく律せられるレントの始まる前のカーニバルの祭の習慣や、復活祭での卵や、イースターバスケットで食卓を飾る習慣につながってきました。

 

今年も、ブラジルのカーニバルの映像が放映されました。リオ・デ・ジャネイロその他諸都市で行われ、多くの観光客を集めています。サンバの音楽も迫力に満ちています。

カーニバルは、謝肉祭と訳され、毎年、レントの前日に行われます。灰の水曜日から断食に入ります。特定の嗜好品を自制したり、或いは食材を控えたりします。勿論今では、日没から日の出までの間だけの断食が多いようですが、40日間肉やコーヒー、ビールを絶つようなことが行われました。これは苦痛だと感じます。本当に断食をしています。

 そうした時代に、これから断食に入るので、いつも食しているものへの感謝を表したのでしょう。肉に感謝する謝肉祭、コーヒーに感謝するカーニバル。観光事業となってしまっても、人々の素朴な信仰は生きている、と考えたいものです。

 

 さて、ルカ福音書17章をご覧頂きましょう。

マタイ24章とマルコ13章は、このところと同じ、終末に関することを語っています。

歴史の終わりと人の子の訪れに関すること、と言っても良いでしょう。小黙示録と呼ばれることも多いようです。マタイ、マルコは、エルサレムの最後と神殿の崩壊と関係付けていますが、ルカはそれらとの関係は語りません。神の国と人の子の再臨にだけ関心を寄せます。

 

論議はファリサイ人の質問が始まりです。途中からは弟子達に対する教えになります。

神の国とは何か、人の子とは何のことか、何も語られていない、論議されていません。

私たちはそれを考えねばなりません。何故お話にならなかったのか。簡単なことです。

ファリサイ人にしても、弟子達にしても、神の国、人の子に関しては充分な知識があったのでしょう。ただ、それがいつ来るのか、或いは人の子を一目で良いから見たい、と願っているのです。

 

神の国は、バシレイア トウー セウー、神の支配と理解されています。これは、マルコ115でよく知られています。当時のユダヤは、ローマ皇帝によって支配されていました。更に、イドマヤ人のヘロデ王家の支配もありました。二重の外国人支配を受けていたユダヤ人の間では、イスラエルの神ヤハウェのご支配を待ち望む気持ちが高まっていました。信仰深いユダヤ人は誰でも、神の十全な支配が到来することを求めていました。

だから、イエスに神の国の到来の時期を質問するのは、当然のことでした。

 

新約聖書では、イエスが「人の子」といわれているところが88回も出てきます。

「人の子」の第一の意味は、ダニエル書71314の預言のことを言います。

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

この「人の子」というのは、メシアの称号です。イエスが主権と栄光と国を与えられたお方です。イエスがこの言葉を使われたとき、人の子の預言をご自分に当てはめておられたのです。 当時のユダヤ人には、この言葉はよく知られていたもので、誰のことを指しているかもよくわかっていたはずです。イエスはご自分こそがメシアだと宣言されたのです。

 

 「人の子」の二番目の意味は、イエスが本当に、人間であったと言うことです。神は、預言者エゼキエルのことを「人の子」と、93回も呼ばれました。神は、単にエゼキエルを人と呼ばれたのです。.人の子とは、人そのものを意味します。 イエスは100%完全に神でした。(ヨハネ1章1節)けれども、イエスは100%完全に人間でもありました。(ヨハネ114)第1ヨハネ42は、「人となって来たイエスキリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」と言っています。もちろん、イエスは神のみ子です。その要素において神なのです。また、イエスは人の子、つまり、その要素において人でもあります。 つまり、「人の子」ということばは、イエスがメシアであり、本当に人間でもあるということを示しているのです。

 

イエスはご自分が政治的なメシアと混同されることを避けるために、自分のことを「人の子」という表現を用いました。だれかがイエスのことを指して「人の子」と言ったのではなく、自分のことを、それもメシア的称号として用いられたのです。ですから、イエス以外にはだれもこの「人の子」という称号を使ってはいません。イエスは故意にこの表現で自分のメシア性を表したのです。

 

神のすることを人間が計算するのは、もし傲慢でも不遜でもないとしたら、無益なことです。何時、何処で、ということは神の知恵の内に隠されているからです。

神の国は、人間によって打ち立てられるようなものではありません。使徒167

さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。(口語訳)

 

御国は何時来るのだろうか、人の子は何処で見られるのだろうか。

この問に対しても、多くの者たちが答えようとします。今日の状況の中ではテレビに出演するタレントや役者を何時、何処で見られるか、という情報を提供するようなものです。

韓国ドラマは、ある時期たいへん高い人気を誇っていました。主演俳優・女優が來日して歓迎され、大騒ぎでした。空港まで多くの人が詰め掛けました。來日の情報を流すからファンは一目みたい、と思うのです。

救い主・メシアと俳優・タレントを同列に論じることは出来ません。それでも、一目みたいと願う人々の思い、という点では同じです。

 

 主イエスは、人々の期待するような答えは与えません。意地悪ではなく、神のご計画と人の思いが、天と地が遠く隔たっているようにかけ離れているためです。 

21節「神の国はあなた方の間にあるのだ」。ここで主は、自分が今ここに居る。これが神の国です、と仰っています。しかし、ファリサイ人だけではなく、弟子達もそのことが解りません。そこで主は、弟子達に教えられます。

 厳しく、激しい審判が突然、やってくること。

 その中から救いが与えられる人たちがあること。

 苦難が突然襲ってくるので、その時自分の命や財産等に心奪われ、執着するならせっかくの救いを失う結果になること

火事は、財産すべてを消滅させるから怖い。命さえあれば、一生懸命働いて再建できる。

命を大事にしなさい。強盗がきても、無駄な抵抗はしないように。父の教えでした。

四旬節、受難節は、主の受難を偲ぶだけではありません。同時に私たちが受けるべき救いと苦しみを学び、正しく備えることを教えるのです。

2015年2月8日日曜日

赦してやりなさい

[聖書]ルカ17110
[讃美歌]361,141,533、
[交読詩編]103:113

 数週間前、説教準備で書いたものを読ませていただきましょう。時間の制約を考え、削除したものです。

「それぞれの時代の問題に対して、決然と精力的に、力強く行動することの大切さを語られた。1967年、修士論文のために読んだ書物には、現代世界というか、当時のアメリカが突きつけられ、今後世界が戦うべき問題が挙げられていました。人種、離婚、核、人口などが大きな項目になっていたようです。これらは今でも大問題になっています。50年近くの時が流れましたが、いまだに新しい問題なのであり続けています。解決不能なのでしょうか。」

 

戦後世界は大きく変化したように見えるし、感じられる。ロケットが宇宙空間を翔り、衛星カメラが地球上を撮影・監視している。多くの国々が独立し、国際連合で活躍している。医療の世界では、触診よりも各種検査が重視されるようになり、データが蓄積されている。それほどにIC機器、或いはPCが普及、発達している、ということでしょう。確かに大きな変化があり、進歩発達した、と言えます。そうは言っても相も変らぬ問題に絡み付かれて身動きが取れないでいます。これが冒頭の文章の意味です。

科学技術面は、時日と共に、着実に進歩しているようです。ハード面での進歩。

人間の存在に関する事は如何でしょうか。相も変わらず、同じことを繰り返しているのではないでしょうか。人間はひとりだけで存在するのではなく、他の人と共に存在し、増殖して行きます。他者と共に社会を構築している、という考えもあります。

 京都大学の霊長類研究所はたいへん有名です。おサルの調査・研究です。平和的だ、と考えられていたチンパンジーが、他の種類のサルを捕まえて殺して食べることがあるそうです。人間の仲間のサル達は、共同生活を営み、社会を造るようになります。そこでは規則・ルールが必要です。それ以前の態度・マナーにも意味があります。

 

初めの段落、12節は、躓きに関すること。

避けられない躓きであっても、一人の小さいものを躓かせる者は、不幸である。

マタイ1867とマルコ942は、並行関係にあります。小さい者は、勿論、身長や体重ではありません。信仰の新参者たちのことです。成熟した信仰者の言動が未成熟な者たちの躓きとなることは、よく見られることです。信仰の共同体には自由の法則が生きています。その自由が躓きを来たらせる時どうするのか、という問題です。

 せっかく獲得した自由を大事にする、ゴーイングマイウェイに徹する人もいるでしょう。

主イエスは、はっきり語ります。共に生きる者たちの間では、愛の法則が生きている、と。自分の自由を削ってでも他の小さい者に仕えることに値打ちがあるんだよ。ガラテア513

 

次の段落は、悔い改める者を赦してやりなさい、と教えています。

マタイ182122では、何回まで赦すべきでしょうか、という問となり、それに対してイエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と答えています。

学生時代、スウェーデンの映画が流行りました。インゲマル・ベルイマン(20077月没)の作品でした。相次いで上映されました。若い人なのか、と思いましたが、終戦直後に映画製作をはじめていました。 

「「第七の封印」「処女の泉」などの名画で知られるスウェーデンの巨匠で、1991(平成3)年に第3回高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)を受賞した映画監督のイングマール・ベルイマン氏が30日、スウェーデン南部の自宅で死去した。89歳だった。20世紀映画の三大巨匠の一人として故黒澤明監督、イタリアの故フェデリコ・フェリーニ監督(ともに世界文化賞受賞者)と並び称された。

  1918年、スウェーデンの大学都市ウプサラに生まれた。父親は厳格なプロテスタント教会の牧師。ストックホルム高校(現大学)時代は学生演劇に熱中、脚本家見習いとして映画会社に就職し、以後、演劇と映画の二本柱で活動。40年間にわたり50本以上の映画を監督した。

  若い娘の奔放な性を描いた出世作「不良少女モニカ」(1952年)。ペストが流行した中世を舞台に死生観を強く打ち出し、主人公の騎士が死神とチェスを指す名場面でも知られる「第七の封印」(56年)、老教授の老いと孤独、生と死に切り込んでベルリン映画祭グランプリを受賞した「野いちご」(57年)、“神の沈黙”3部作として名高い「鏡の中にある如く」「冬の光」「沈黙」、さらに「ペルソナ」「叫びとささやき」「ある結婚の風景」「秋のソナタ」などを撮り、自伝的作品「ファニーとアレクサンデル」(82年)を撮り終えて後、「映画でやるべきことは、すべてやり遂げた」として映画監督を引退した。

  

私は親しむことが出来ませんでした。一つも観ていません。同時代・同傾向の映画の題名を記憶しています。『491』。当時の青少年の無軌道で奔放な生活を主題に、これでも赦さねばならないのか、と問う作品でした。七度を七十倍するまで赦して、その次491回目はどうするのか、問いかけていました。むしろ赦すことが主題、と言えるのかもしれません。私が、今でも観ていないのは怖かったからだろうと思います。野放図な生き方の感化で、自分がそうなってしまうように感じたのでしょう。すでに、自分の中にその素地があるからです。主は回数で限度を示してはいません。無限を意味しておられます。

 

17章の最初の部分は、弟子達との対話となっています。16章のファリサイ人との対話とは、だいぶ様子が違うように感じられます。

56節は、「使徒たち」との対論です。ホイ アポストロイ トー キュリオー

福音書では、殆どの場合弟子たちと呼びます。ここは珍しい。なぜか?

ここで福音書記者ルカは、イエスに従いエルサレムへ行った弟子達ではなく、甦りの主と出会い、教会の指導者、復活の主の宣教者となった使徒たちを意識しています。

 ルカの教会で、信仰が弱まるようなことがあったのでしょう。確信が揺らぐ、と言ったほうが良いかもしれません。迫害が迫っている時、平穏な時代とは違う緊張に捉えられます。逃げるべきか、殉教するべきか。判断が出来なくなります。信仰は、現在の状況を正しく掌握する力を与えます。これから何処へ進むかを示します。したがって、次の一歩を何処におけばよいか選ぶことが出来ます。

小学生の時、運動会の分列行進の練習がありました。予科練出身の若い先生が指導してくれました。一緒に相撲をとったり、赤ふんどしで水泳を教えたりしてくれた先生。行進のときは、足元を見ていては曲がってしまう。顔を上げて、遠くの目標を見て進みなさい。

将来・未来とは、これから何処へ行くのか、と言うことです。人生の目標を何処に置くのか、正しく設定すれば、それを見上げて歩むことが出来ます。

そして、このところから過去について正しく判断させます。自分のこれまでのことは、決して誇ることは出来ない、と教えるでしょう。罪の悔い改めが生まれます。

 

7~10節、これは、他の福音書には見られないものです。

前半の譬は、一人の奴隷が畑と家の中、二つの働きの場を与えられているところで起きたこと。私は、一つの奉仕を成し遂げました。褒めてください。奉仕を受ける側に回してください、と言っているように考えられます。私たちは皆、キリストの僕です。

ある宗教では、信仰に階級や位をつけ、年功や献金、奉仕への参加など教派への貢献によって、上昇する仕組みを作っています。もう少しで奉仕を受ける側に立てるぞ、ということが励みになるそうです。

 

神学校の授業、北森嘉蔵先生。早いものです、半世紀が過ぎてしまいました。

「君たちは、なすべきことをなしたるのみ、と言いたいだろう。実際そのように言っているだろう。よく考えて欲しい。本当になすべきことをなし終えたか。たいていは、なすべきことをなし終えてもいないのに、言っているのではないか。」

いつもは賑やかでおしゃべりな学生達、この時はしゅんとなってしまいました。同じことを高崎毅先生も言われた、と記憶しています。厳しく、優しく、謙遜な先生でした。

小生意気な私も、サボってばかりいることを反省、肝に銘じたものです。人間の傲慢さ、独善は、イエスの時代から2000年間同じだし、この50年間だけでも変わりがない。

 

私たちは、多くのなすべきことのうち、わずかばかりのものだけを行い、それをもってなすべきことをなし終えた、と安心している。自分の担当と定められたことを済ませただけでも、なすべきことをなし終えました、と安心、平然としている。それで良いのか。

この点でも、人間は古来たいして変化していないし、いわんや進歩などありはしません。

傲慢にも、何も成し遂げていないのに、なすべきことをなしたるのみ、などと言っているのではないか。そんな自分のドヤガオ。笑止千番、身震いするほど自己嫌悪に駆られます。想像しただけで背筋が寒くなります。そんな私を神は愛してくださる。赦してくださる。赦してやりなさい、とのみ声が聞こえてきます。

2015年2月1日日曜日

金持ちと貧乏人のラザロ

[聖書]ルカ161931
[讃美歌]361,8,464、
[交読詩編]147:1~11、

 

この譬もルカ福音書特有のものです。不正な管理人の譬同様、私には難しい。好きではありません。とりわけ陰府の事が判りません。陰府、シェオール、すべての死者が横たわり、最後の審判を待つところ。そこでは一切の音が消え、動きもなく、熱も光もない冷たいところ。このように学んできました。ところが、この譬では、死んだ金持ちは、陰府へ下り、そこで何かによってさいなまれています。もだえ苦しんでいます。水を求め、舌を冷やさせてください、と願うところから考えると、たいへんな暑熱に苦しめられているのでしょう。

 

 登場人物は、金持ち、この人はたいへん贅沢な生活をしています。その衣裳は眼を瞠るようです。王侯貴族につき物の紫布。それをいつも着ている。柔らかい亜麻布。

食卓も世界中から集めて調理した食品が供せられる宴席です。高価で、美味で、手に入れ難いようなグルメ向きの宴席。信じられないようなことですが、それを毎日繰り返す。

この人は、何の苦もなくそうした生活を進めます。しかも、そのために何の労動も、悩みも感じていません。こうした食卓は、残り物があるでしょう。私たちの心配は無用です。その家の女子供、家族や雇い人、奴隷たちが頂くことになっています。

 アラビアのロレンス、アラブの族長の天幕に客となり、食事を供せられた。小羊が丸ごと大皿に盛られてきた。サフランライスがたくさん、周りに盛られている。一体何人で食べるのか。とても食べきれる量ではない。悩んでいると答えがあった。一番良いところ、美味しいところは、客人と主人が食べます。次は男たちのものです。残った部分は女子どもたちのためのご馳走となります。残しては失礼になるなどと心配せず、美味しいところを食べたいだけ、召し上がれ。

 

 この人物に関して大きな特徴は、金持ちになった経過は何も語られていないことです。

多くの場合、悪辣な手段を講じ、搾取、略奪、詐欺的な手段で資産を形成するものです。

この人の場合、そうしたことがあったが、記されていないのか、親代々の資産があり、利が利を産むような状態で、苦もなく贅沢を続けることが出来たのでしょう。

 

邸宅の門前に貧乏人ラザロが物乞いをしています。貧乏人であれば、それなりに仕事があり、身過ぎ世過ぎができるでしょう。このラザロは、何もありません。ただ名前だけです。譬の登場する人物は、一人も名前をつけられていないのに、選りによってこの貧乏人に名前がつけられています。当時の人々の大多数は、こうした貧乏人は、神からも見棄てられ、なんら好意を獲得することは出来ない。主なる神のご不興をこうむっているのだ、と考えていました。しかもこの名前は、マタイ115ヨセフの系図にもありますが、ありふれたものです。エレアザル、「神援けたもう」を意味します。

 

ことによると、意図的にラザロの名を記したのかもしれません。

豊かな金持ちは、あらゆるものを持っていて、何ひとつ不自由はしないけれど、ただ一つ名前がなく、名を呼ばれることがない。根底において孤独な存在であること。

貧乏なラザロは、何も持たず、食べるものにも不自由しているが、この名を呼んでもらえるし、それによってかろうじて人間らしい存在に止まっている。孤独ではない。

この対照を鮮やかにする意図を持って。

 

貧乏人のラザロは、食卓から落ちるもので腹を満たしたい、と願っています。彼にまでまわってくる物は何もありません。家の者たちを喜ばせていただけです。ことによると食卓を綺麗にするために使われたパン切れにありついた犬に替わりたいと願っていたかもしれません。

マルコ728「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパンくずは頂きます。」旧讃美歌206、主の清き机より こぼれたるくすをだに、讃美歌2177、パン屑さえ拾うにも 値せぬものなれど、

 

貧乏人のラザロ、神が助けてくださる、即ち神の援けを必要としている人です。

 

前回、お話したように、ファリサイ人は、豊かな財貨を、神の好意によって与えられた恵みの徴と考えていました。金持ちは、神の好意の徴として富を、与えられているのです。

「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、即ち牛の子や羊の子も祝福される。」申命記2834

この金持ちは、神が人を滅ぼしている時に干渉すべきでない、という論拠によって、彼がラザロを助けなかったことを正当化できました。

この譬は、神の律法を喜ぶ者について語る神学なのです。

「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。しかし、神に逆らうものはそうでない。」

詩編134、これをルカは攻撃しています。

 

 この貧乏人が死にました。誰にでもいつか来る時が来ました。早いか遅いかの違いだけです。天使達はこの人を天のみ国で開かれる宴席で、父祖アブラハムの近くに連れて行かれました。特別な上席です。

 

金持ちも死んで葬られました。彼はどうやら永遠の住まいではなく、刑罰の場所と考えられる死の世界(詩66参照)に移されたようです。ハデス、死者が行く地の深いところ、とされます。何故シェオールではないのでしょうか。

 

そこで、いわゆる地獄の責め苦にあわされているようです。そこから天の宴席の様子がよく見えました。大声で叫びます。24節、ラザロの指先に水をつけて、その一滴で自分の舌を冷やさせてください、と願います。この水は、義人が住む場所にある泉(エノク書229)を指しているそうです。こうした願いは拒絶されます。

 

 そこで、この金持ちは、自分のことではなく、自分の兄弟5人のためにラザロを派遣してください、と願います。それに対してもアブラハムは、拒絶します。

「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるが良い。」

金持ちは粘ります。「死んだ者の中から、誰か行ってやれば、悔い改めるでしょう。」

アブラハムの答え、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

 

 この金持ちは、死んだ後、アブラハムの下へ行くことが出来ませんでした。不思議なことに、彼はそのことについて抗議していません。それを受け入れ、兄弟たちが同じような苦しみに遭うことがないように願っています。 彼は、確かにファリサイの聖書解釈と教えに従い生活したでしょう。掟に反することはしていない、と主張できました。同時に、それとは違う聖書の言葉に従っていなかったことも知っていたのです。収穫を貧しい者や寄留者と分かち合うべきこと(レビ19910)や、生活に苦しむ貧しい同胞に対して、大きく手を開きなさい(申命15711)。更にイザヤ5867 (口語訳)

6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。

7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。

 

 金持ちは、自分の兄弟たちが正しい道を歩むように、悔い改めるように導いて欲しい、と考えました。そのためには、モーセと預言者に聞き、従うことしかないんだよ、と主イエスは言われます。これが、この譬の意味です。死者の中から甦った主イエスの言葉を聞くのは私たち。それ以前のファリサイ・ユダヤ人にはモーセと預言者達がいます。彼らの言葉を正しく聞き、学び、従うことが出来ます。そのことへと求められ、招かれています。