[讃美歌]433、151,309、
[交読詩編]22:2~22、
本日は、棕櫚の主日です。Palm
Sunday 聖書はルカ19:28~44、
主イエスが、最後にエルサレム入りを果たす前に、オリブ山の下り坂辺りで、弟子の群れが神を讃美したことに基づきます。マルコ11章、マタイ21章に並行記事があります。
預言された方の到来を讃美し、「天には平和、いと高きところには栄光」と祝福されます。
目の見えない物乞いの物語は、三福音書に共通。力弱く貧しい人の物語
ザアカイの物語は、ルカ福音書だけにあるもの。金持ちの物語。
どこかで互いに響きあうものを感じませんか。
二人が、それぞれに、ユダヤの宗教共同体から弾き出されていたこと、共同体の一員として回復されることを願い求めていました。この回復という形の救いを、イエスがお与えになったことが響いてきます。二つの出来事は、互いに響き合う二つの鐘のようです。
18章の終わりの出来事は、恐らく町の門の前で起きたこと、とお話しました。
19章初めの出来事は、同じ町を通り抜ける間の出来事です。
旧約聖書のヨシュアによって知られるエリコは、堅固な城壁によって守られた古代の町でした。今、主イエスが通っておられるのは、崩壊した町の跡から東へ数キロ行った辺りに造られた街道沿いの新しい町です。
その町で、ザアカイは徴税人の頭であった、とあります。
レビと呼ばれ、イエスの弟子、12人の者たちの仲間になった徴税人がいました。5:27~32参照。私たちは、レビと呼ばれる徴税人に関しても思い出すでしょう。
彼らは、ローマ帝国とイドマヤ出身のユダヤ王ヘロデのためにユダヤ人から税を徴収します。
「腐敗したシステムに於いては、ある人物の地位が高ければ高いほど、その人物のその組織における共犯の度合いは高いことになる。・・・それは、他の人々から強奪し、彼らの持っているものを搾り取るような計画に参加し、そこから利益を得ている」ザアカイだろう。
このザアカイの耳に聞こえてきたのは、イエスの噂でした。
「徴税人や罪人の仲間」(7:34)、ザアカイがこれを聞いた時、この人を見たい、という願望が強く湧いてきた。それは多くの嘲りや、恐れによってもとどめる事は出来ません。
自分も徴税人の一人だ、イエスの仲間になれる、と信じたのです。
救われる、と言う語は、「良くされる」「癒される」「完全にされる」とも訳される。
ザアカイはイエスにお目にかかりたい、と熱望しました。街道を進まれるに違いありません。大勢の人出です。今日で言えば、スターやアイドルを観ようとする時の混雑のようなものです。1966年6月、イギリスのロックバンド、ビートルズが來日。大歓迎。
1972年中国交正常化を記念して2頭のパンダが上野に来た。カンカン、ランラン、これも大歓迎されました。ちなみに現在国内でパンダを見られるのは、上野と神戸・王子動物園。そして和歌山のアドヴェンチャーワールド、ここはパンダの繁殖研究施設と認められています。8頭います。赤ちゃんがいたり、数に増減もあります。このためでしょうか、和歌山県白浜便は、満席でチケット入手が困難です。名古屋・大阪から私鉄・JRを利用できます。
こうした時、人々は一目でも良いから、と言うことで詰め掛けます。最近大人気の駅伝で
も、沿道での観戦、応援はすごいものがあります。二重・三重の人垣、後ろになった人は
背伸びして少しでもよく見えるようにしようとする。雪国の雪の壁と似ている人の壁です。
人の背中は、無意識のうちに他の人々を拒絶しています。
ザアカイは、人々の拒絶には慣れていました。そもそも、人の嫌う徴税人になったのも、
極端に背が低いためにユダヤの共同体から拒絶され、仕方なしに仲間に入れてもらったの
です。結果があれば、そこには必ず原因があります。嫌うには原因があり、嫌われる側に
も原因があります。ザアカイにも様々な背景があり、誰かにそれを聞いて欲しい、誰かに
理解して欲しいと、願ってきました。どうやら、このイエスというお方なら、自分の望み
が叶えられそうだ。人生最重要な時になるに違いない。
それにも拘らず、イエスの姿を観ることは、ザアカイには無理だった。
人垣が、人間の壁が、無情にもザアカイを拒絶している。意識的に拒んでいる。足元も。
下がだめなら上がある。諦めないザアカイは、先のほうへ走っていって、イチジク桑の木
に登りました。
イチジク桑、東フリカ原産、常緑であるが厳しい冬には落葉する。大木になり、高さ15m、葉冠は20m、
幹の太さ1~2mになるものもある。葉はイチジクに似ず、むしろ桑のような形をしている。イチジクより
小さく、丸みのある実が主幹や古い枝に直接つく。夏に熟し、昔は貧しい人に食べられ、売られてもいた
がイチジクのように美味しくはない。・・・イチジク桑はイチジクに比べると寒さに弱い(詩78:47)。
イスラエルでイチジクはガリラヤやゴラン高原などにも生えているが、イチジク桑はイスラエル南部や
温暖な海岸地帯に多く自生している。
ヨルダン渓谷から死海周辺は、亜熱帯気候に属します。イチジク桑に適した地域のようです。
ザアカイを知る人は、人間の壁・人垣を造り彼を拒絶しました。木の下を通ったイエスは、
彼に目を留め、その名を呼び、話しかけました。
「あなたの家に泊まりたい」。普通に考えても友好的な言葉です。
ザアカイは、これまでユダヤ人の仲間とは認められていません。祭儀律法の面では、穢れ
た者で、その家に泊まることは、その人も汚れることを意味しました。普通の人は誰も泊
まろうとは考えません。イエスは全てを承知の上で、ザアカイの家に客となられます。
王侯貴族、富裕な貴紳の家ではなく、背の低いザアカイ、汚れた罪深い男の家を選んで、
宿としました。
このイエスをお迎えしたザアカイは、財産の半分を貧しい人々に施します。騙し取った
ものがあればそれを四倍にして返します。これは、通常、掟に定められた償いを超える、
自発の償いと考えられています。本当の仲間を得た喜びがザアカイを変えました。これま
での彼がどれほど孤独であったか、解ります。
ザアカイは、熱望していたようにイエスと出会い、イエスを家に迎え、その結果として、律法の要求を超える償いを行いました。
イエスがザアカイの家を訪れたのは、イエスのエルサレムへの旅の途中でした。そしてそれは、決して回り道や、時間の無駄ではなかったのです。これこそがこの旅の目的であったのであり、そして今もそれは目的でありつづけています。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
失われている人とは誰でしょうか。全ての私なのです。この私の客となり、主となって下さるのです。価値ある生き方が私たちのために備えられています。
自発的な償いは、元金の20パーセント増し、
レビ5:16そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。
民数5:6「イスラエルの人々に告げなさい、『男または女が、もし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、5:7その犯した罪を告白し、その物の価にその五分の一を加えて、彼がとがを犯した相手方に渡し、そのとがをことごとく償わなければならない。
強制的な償いは、元金の二倍、場合によっては四倍から五倍を支払った、
出エジプト22:9牛であれ、ろばであれ、羊であれ、衣服であれ、あるいはどんな失った物であれ、それについて言い争いが起り『これがそれです』と言う者があれば、その双方の言い分を、神の前に持ち出さなければならない。そして神が有罪と定められる者は、それを二倍にしてその相手に償わなければならない。
サムエル下12:5ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。
12:6かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。