2015年3月30日月曜日

あなたの家の客となりたい

[聖書]ルカ19110
[讃美歌]433、151,309、
[交読詩編]22:2~22、

 

本日は、棕櫚の主日です。Palm Sunday 聖書はルカ192844

主イエスが、最後にエルサレム入りを果たす前に、オリブ山の下り坂辺りで、弟子の群れが神を讃美したことに基づきます。マルコ11章、マタイ21章に並行記事があります。

預言された方の到来を讃美し、「天には平和、いと高きところには栄光」と祝福されます。

 

目の見えない物乞いの物語は、三福音書に共通。力弱く貧しい人の物語

ザアカイの物語は、ルカ福音書だけにあるもの。金持ちの物語。

どこかで互いに響きあうものを感じませんか。

二人が、それぞれに、ユダヤの宗教共同体から弾き出されていたこと、共同体の一員として回復されることを願い求めていました。この回復という形の救いを、イエスがお与えになったことが響いてきます。二つの出来事は、互いに響き合う二つの鐘のようです。

 

18章の終わりの出来事は、恐らく町の門の前で起きたこと、とお話しました。

19章初めの出来事は、同じ町を通り抜ける間の出来事です。

旧約聖書のヨシュアによって知られるエリコは、堅固な城壁によって守られた古代の町でした。今、主イエスが通っておられるのは、崩壊した町の跡から東へ数キロ行った辺りに造られた街道沿いの新しい町です。

 

その町で、ザアカイは徴税人の頭であった、とあります。

レビと呼ばれ、イエスの弟子、12人の者たちの仲間になった徴税人がいました。52732参照。私たちは、レビと呼ばれる徴税人に関しても思い出すでしょう。

彼らは、ローマ帝国とイドマヤ出身のユダヤ王ヘロデのためにユダヤ人から税を徴収します。

「腐敗したシステムに於いては、ある人物の地位が高ければ高いほど、その人物のその組織における共犯の度合いは高いことになる。・・・それは、他の人々から強奪し、彼らの持っているものを搾り取るような計画に参加し、そこから利益を得ている」ザアカイだろう。

 

このザアカイの耳に聞こえてきたのは、イエスの噂でした。

「徴税人や罪人の仲間」(734)、ザアカイがこれを聞いた時、この人を見たい、という願望が強く湧いてきた。それは多くの嘲りや、恐れによってもとどめる事は出来ません。

自分も徴税人の一人だ、イエスの仲間になれる、と信じたのです。

 

救われる、と言う語は、「良くされる」「癒される」「完全にされる」とも訳される。

 

ザアカイはイエスにお目にかかりたい、と熱望しました。街道を進まれるに違いありません。大勢の人出です。今日で言えば、スターやアイドルを観ようとする時の混雑のようなものです。19666月、イギリスのロックバンド、ビートルズが來日。大歓迎。

   1972年中国交正常化を記念して2頭のパンダが上野に来た。カンカン、ランラン、これも大歓迎されました。ちなみに現在国内でパンダを見られるのは、上野と神戸・王子動物園。そして和歌山のアドヴェンチャーワールド、ここはパンダの繁殖研究施設と認められています。8頭います。赤ちゃんがいたり、数に増減もあります。このためでしょうか、和歌山県白浜便は、満席でチケット入手が困難です。名古屋・大阪から私鉄・JRを利用できます。

こうした時、人々は一目でも良いから、と言うことで詰め掛けます。最近大人気の駅伝で

も、沿道での観戦、応援はすごいものがあります。二重・三重の人垣、後ろになった人は

背伸びして少しでもよく見えるようにしようとする。雪国の雪の壁と似ている人の壁です。

人の背中は、無意識のうちに他の人々を拒絶しています。

 

 ザアカイは、人々の拒絶には慣れていました。そもそも、人の嫌う徴税人になったのも、

極端に背が低いためにユダヤの共同体から拒絶され、仕方なしに仲間に入れてもらったの

です。結果があれば、そこには必ず原因があります。嫌うには原因があり、嫌われる側に

も原因があります。ザアカイにも様々な背景があり、誰かにそれを聞いて欲しい、誰かに

理解して欲しいと、願ってきました。どうやら、このイエスというお方なら、自分の望み

が叶えられそうだ。人生最重要な時になるに違いない。

 

それにも拘らず、イエスの姿を観ることは、ザアカイには無理だった。

人垣が、人間の壁が、無情にもザアカイを拒絶している。意識的に拒んでいる。足元も。

下がだめなら上がある。諦めないザアカイは、先のほうへ走っていって、イチジク桑の木

に登りました。

イチジク桑、東フリカ原産、常緑であるが厳しい冬には落葉する。大木になり、高さ15m、葉冠は20m

幹の太さ12mになるものもある。葉はイチジクに似ず、むしろ桑のような形をしている。イチジクより

小さく、丸みのある実が主幹や古い枝に直接つく。夏に熟し、昔は貧しい人に食べられ、売られてもいた

がイチジクのように美味しくはない。・・・イチジク桑はイチジクに比べると寒さに弱い(詩7847)。

イスラエルでイチジクはガリラヤやゴラン高原などにも生えているが、イチジク桑はイスラエル南部や

温暖な海岸地帯に多く自生している。

 

ヨルダン渓谷から死海周辺は、亜熱帯気候に属します。イチジク桑に適した地域のようです。

 

ザアカイを知る人は、人間の壁・人垣を造り彼を拒絶しました。木の下を通ったイエスは、

彼に目を留め、その名を呼び、話しかけました。

「あなたの家に泊まりたい」。普通に考えても友好的な言葉です。

ザアカイは、これまでユダヤ人の仲間とは認められていません。祭儀律法の面では、穢れ

た者で、その家に泊まることは、その人も汚れることを意味しました。普通の人は誰も泊

まろうとは考えません。イエスは全てを承知の上で、ザアカイの家に客となられます。

王侯貴族、富裕な貴紳の家ではなく、背の低いザアカイ、汚れた罪深い男の家を選んで、

宿としました。

 

 このイエスをお迎えしたザアカイは、財産の半分を貧しい人々に施します。騙し取った

ものがあればそれを四倍にして返します。これは、通常、掟に定められた償いを超える、

自発の償いと考えられています。本当の仲間を得た喜びがザアカイを変えました。これま

での彼がどれほど孤独であったか、解ります。

 

ザアカイは、熱望していたようにイエスと出会い、イエスを家に迎え、その結果として、律法の要求を超える償いを行いました。

 

イエスがザアカイの家を訪れたのは、イエスのエルサレムへの旅の途中でした。そしてそれは、決して回り道や、時間の無駄ではなかったのです。これこそがこの旅の目的であったのであり、そして今もそれは目的でありつづけています。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

失われている人とは誰でしょうか。全ての私なのです。この私の客となり、主となって下さるのです。価値ある生き方が私たちのために備えられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自発的な償いは、元金の20パーセント増し、

  レビ5:16そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。

  民数5:6「イスラエルの人々に告げなさい、『男または女が、もし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、5:7その犯した罪を告白し、その物の価にその五分の一を加えて、彼がとがを犯した相手方に渡し、そのとがをことごとく償わなければならない。

 

強制的な償いは、元金の二倍、場合によっては四倍から五倍を支払った、

出エジプト22:9牛であれ、ろばであれ、羊であれ、衣服であれ、あるいはどんな失った物であれ、それについて言い争いが起り『これがそれです』と言う者があれば、その双方の言い分を、神の前に持ち出さなければならない。そして神が有罪と定められる者は、それを二倍にしてその相手に償わなければならない。

サムエル12:5ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。

12:6かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。

 

2015年3月15日日曜日

永遠の命を受け継ぐために

[聖書]ルカ18:18~30、
[讃美歌]433,141,297,77、
[交読詩編]29:1~11、

本日の聖書には、『金持ちの議員』という小見出しが付いています。これは、ルカ特有の物語ではありません。他の福音書にもありますが、少しずつ違うところがあります。
マルコ1017以下では、「金持ちの男」、となっています。「良い先生」という呼びかけは同じです。マタイ1916以下は、「金持ちの青年」。呼びかけは「先生」。
内容的には、永遠の命を受け継ぐため、どんな良いことをすればよいのか、と問いかけ、掟を守るべきことを示されます。質問者が、それらはすべて守ってきました、と答えます。イエスは、欠けている事を示し、「天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われると、男は悲しみながら立ち去った、となります。細かいところでは違いがありますが、大筋では同じです。三つの福音書に共通している物語、と言えます。

もう一度、ルカ福音書によって、読んでみましょう。
「善い先生」、ディダスカレ アガセ と呼びかけます。
ディダスカロス、教師・先生、師、を意味します。
アガソス、(本質的に、その内的性質がよいこと)、人・もの・行為、状態について、また対人関係において「よい」こと、善良な、親切な。   類語にカロスがある。こちらは外的優秀性、優美性。これに対しアガソスは、外観のいかんに関わらず、そのものの内的本質が「よい」こと。その種のものの中ではまず完全とみなされるもの。喜びや満足等をもたらすもの。

この質問者がどのような人で、どのような動機を持って質問したか、判りません。
議員であることは知られていたのでしょう。議員であれば、最低限の知識を持っているはずです。恐らくユダヤの最高議会・サンヒドリンの議員。これは70人が定数です。他にも地方議員に相当する会堂議員があるようです。いずれであっても律法、伝統、判例、家族関係その他多くの知識・経験を持っていることが確認されて、選ばれたことでしょう。ところが、その議員さんがおかしなことを言います。
「善い先生」、マルコ福音書も同じです。多数決ではありませんが、主ご自身これをお聞きになり、それに反応されたと考えられます。ユダヤ人の間では、本質的な善さ、というものは、神のほかには存在しない、と考えられてきました。そのくらいのことは、議員であれば当然知っているはずです。知っていても、イエスの前に来た時、思わず「良い先生」と呼びかけてしまった。反対意見もありますが、これは決して悪意ではないし、神を冒涜するものでもない、と考えます。
 この質問者は、これまでの人生を通して、一生懸命ユダヤ人として生きてきた。律法や言い伝えを守り、善行に励んできた。しかし、それだけではどうも、永遠の命を獲得できる、という確信に到達できない。ナザレから来た評判の先生は、私の悩みに答えてくれそうだ。その心が「善い先生」との呼び掛けになったのでしょう。

宗教改革者として有名なマルティン・ルターは、若い修道士時代、学問研究とともに戒律を守ることに熱心でした。当時の修道士は誰でも、戒律を守り、難行苦行を自分自身に課し、それを果たすことで救いの実感を得ようとしていました。
しかしルターは、熱心に、正しく守っても救いの確信が得られなかった。

彼の時代は、ルネッサンス時代、啓蒙主義、文芸復興、ギリシャ・ローマ時代の復興、大航海時代、様々な呼び方があります。それだけ活発な動きがあったということです。
言葉を変えれば激動の時代です。伝統破壊、新秩序の出現とも言えるでしょう。
当時有名な出来事がありました。ルネッサンス教皇アレサンドロ6世は、ローマの街中に住居を構え、奥さん・子ども達と一緒に生活していました。ローマ市民は、そのことをよく知っていたそうです。教会の伝統を破壊する、と理解され好評でした。

同じ時代、フィレンツエでは説教修道士サヴォナローラが頭角を現してきました。彼の炎の説教は、教会の堕落、市民の堕落、信仰の堕落を説いた。その結果、フィレンツエの名家、メディチ家は支配者の座を追われます。神聖政治が始まったが、一部民衆は過激に走り、一般大衆から見放さるようになります。教会はサヴォナローラに復讐しました。歴史は、彼を宗教改革の先駆者の一人に数えています。

サヴォナローラは、徹底的に神に従うことを求めた。それを喜んだある人々は、語られた言葉を超えて自分の考えを作り、それを基準とした。富裕な人々の持つ貴重な書物を、神に反することを教えるものとして取り上げた。そして町の広場で燃やした。古代中国で始皇帝が行った焚書の再現です。化学(錬金術)、物理学(占星術)関係の書物、贅沢な衣裳、絵画彫刻、その他多くのものが燃やされた。歴史的にも、人類の進歩の上でもかけがいのないものが失われました。

ヒトラー時代のドイツ、毛沢東時代の中国、同じような文化破壊が行われました。日本でも同じ頃、同じようなことが起きていました。《愛国》を振りかざして言葉狩りが行われました。敵性国家、と言われたらなんでも引っ込めなければならない。今また同じことが起きはじめています。総理大臣・内閣の意向に反すること、攻撃するようなこと、放送を自粛せよ。しかも、自発的自粛であって禁止したのではないから言論封殺ではない、と厚顔無恥な言い草。抗議しないマスメディア。もはやジャーナリストではない、その資格喪失です。
1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして《火の試練》を挑戦されました。これは47日の当日、フランチェスコ会側が怖気づいたために実施されなかったが、48日サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。サヴォナローラのあまりに厳格な政策とヴァチカンからの破門によって人心は、急速に彼から離れ、彼は激しい拷問を受けました。教皇の意による裁判の結果、1498523日、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。
 修道士ルターは、教会が生み出した戒律遵守や習慣的な苦行によって、救いを得ようとして得ることが出来ませんでした。ローマの教会が生み出した教理や、制度に疑問を持ち、それらを再検討、論議しよう、と呼びかけました。
サヴォナローラは、神に従うことを徹底しました。そこに神の国が成立する、と考えたのでしょう。しかし、人間は間違えるものであることへの理解が足りませんでした。すばらしい説教だったようです。必要を超えた贅沢を戒めることはあるでしょう。しかし全ての信仰者を、修道士のような生活にすることを求めるでしょうか。一部の者たちは、そのような運動にして行きました。大部分の者たちは、運動から身を引き離し、反対する者になって行きました。讃美歌481番は、彼の詩です。福音信仰を素直に描き出しています。

 修道士ルターも、サヴォナローラも、ある意味で、救いに至る道を自分の力で作ろう、築き上げようとしました。本日の議員も同じです。それに対して主イエスはどのようにお答えになったでしょうか。
 アレもした、これもしていると言うが、欠けているものがある。
「持っているものを全て売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
自分の力ですることには、いつも欠けがあります。もっとも欠けていることは、主なる神に全く従うことです。主なる神を信頼することです。救いは神によってなります。
神に、不可能はありません。信頼し、委ねる者をお守り下さいます。神と富に兼ね仕える事は出来ません(マタイ624)。パウロは、富に居る道を教えています(フィリピ412)。
とめること、貧しいことに処する道を学びましょう。



2015年3月8日日曜日

ファリサイ人と徴税人

[]ルカ18917
[讃美歌]433,12,475、
[交読詩編]107:1~16、

 

WEBから一つの文章を御紹介しましょう。どのような方のものか、お考えください。

1、好きなお酒は? ワイン、シャンパン。

2、好きな映画は? ショーシャンクの空に、海の上のピアニスト。

3、好きな本は? キルケゴール、

4、一番嬉しい時は? 拍手を貰う時。

5、一番悲しい時は? 体のことをいろいろ言われる時。

 

私はこれを読んで、判らなかったのですが、結構趣味的な方かな、と感じました。

これは、すでに引退したトップ・ストリッパーの書いた本にある自己紹介文の一部です。

「踊り子として一番嬉しい時は」拍手を貰う時、となっています。踊り子、と判りますので、それは読みませんでした。踊り子、たいへん体力を使います。四季劇場の『キャッツ』が始まったようです。観た事はありませんが、猫を表現するためにたいへんな運動能力を必要とする、と聞きました。ストリッパー、これも観たことはありませんが、肉体的な美しさと運動能力を維持するために節制が必要だろうなあ、と感じます。どちらかと言えば、体育会的で頭脳明晰な人。注目はキルケゴールです。

 

同じ著書から、キルケゴールに関する記述の一部を引用・掲載します。

 『「空の鳥を見なさい。野の百合を思いなさい」・・教師としての百合と鳥から沈黙を学ぼう、あるいは口をつぐむことを学ぼう。・・百合はせっかちに「春はいつくるだろうか」などと尋ねたりはしない。・・たとえ萎れるがゆえに苦悩し続けようとも、百合は口をつぐむ。・・百合には自分を偽ることができない。・・百合や鳥は神の国を求め、他のものはまったく求めない。他のものはすべて彼らに与えられるのである。』

このキルケゴールの福音書”野の百合”の解釈を、彼女が正しく理解していれば、何も求めず自分を偽らない”野の百合”の思いに反して、自らの肉体に美容整形を施す所業を決して行わなかったと、私は今強く確信しています。

 

キルケゴールは、デンマークの哲学者、実存哲学の創始者と考えられています。

『あれか、これか』『死に到る病』などが有名です。ある学者は、彼を評して『キリスト者になれなかったキリスト者』と書きました。それは彼が、キリスト教を信仰しながらも、『信仰』の前に立ちすくんでしまったからである、と言う。そうでしょうか?  

私は、彼はイエスをキリストと信じる信仰者だ、と考えます。彼は、聖書の中に記されたイエスを讃美します、渇仰します。救い主・キリストである、と信じます。

間違いなくかれは、キリスト信仰者。しかし、教会の信仰箇条を信じ、告白する教会の信者ではないでしょう。そのためでしょうか。彼は、アンティクリストを名乗ります。筆名に反キリスト、或いはそれに類するものを使います。

私は、神学校時代、たまたま彼の書いた《三つのキリスト教講話》を読みました。聖書の読み方で大きな影響を受けた、と考えています。

この書は、大祭司、収税人、罪ある女、この三つからなっています。

 

三つの講話には、彼の誰よりも深い聖書理解が記されています。神学校の頃、私はこれを読み深く心動かされました。

教会的ではないかもしれない。伝統的ではないだろう。それでも、聖書的であることは確かです。二番目の『収税人』が、今朝の『ファリサイ人と徴税人』、ルカ18917です。

 

ユダヤ国内では、徴税人が汚れた罪人である、ということで衆目は一致します。国民の中から追放すべき存在でした。外国政府のために自国の人々から税を集める、という苛酷な、腐敗したシステムの関与者。非難されて然るべき人物像と言えます。

政治的には民族・国家の裏切り者です。宗教的には不浄、席を共にすることも忌まわしい汚れた存在です。

彼の祈りは詩51の精神に通じるものがあります。しかし、彼の生活は人々に責められるようなものでした。

 

ファリサイ人は、ここ神の前で自己紹介をしているようなものです。それによれば、

律法の要求を超える生活をしていることが伺えます。満点以上の優等生。

その感謝の祈りは、詩1735の内容と精神に結びついた一般的なラビの祈りと同じです。

「私が~でないことをあなたに感謝します」という形です。

彼は、傲慢かもしれない。ことによるとある種の実力を持っているかも。いやみな人です。

それでも彼が熱心であり、信じるものに一生懸命であることは、誰であれ否定できない。

そのために、彼が間違っているとは誰も言わない。言うことができない。

却って彼は、彼が求めている人々からの尊敬を得ることが出来たりもする。

 

週二度の断食の規定は何処にもないが、信心家の間では習慣になりつつあった。それは自発的な禁欲によって、民の中の罪ある者の罪を贖おうという願いから生じた習慣である。パリサイ派自体はそうした贖いを必要としないからである。

十分の一税についても同様である。申命1422以下では、穀物、ぶどう酒、油の十分の一と更に家畜の初子が生産者に求められている。

信心家は、十分の一税を、申命14章で挙げられた産物よりずっと広範囲のものにまで広げた(マタイ11422323その他)。 

祈りのスタイルを観てみましよう。

ファリサイ人は、自信に満ち神との親交を確信して、諸手を挙げて祈りました(詩1412、エズラ95、1テモテ2:8)。目を天に向けていたでしょう。

取税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」。

彼は、罪を犯したことを意識しています。彼はただ疑いつつも(2348)、恵を懇願するのみです。神の義が彼に対して向けられるなら、彼は滅ぼされざるを得ないのだから。

 

取税人は、自分に関しては無条件で神を義とします。パリサイ人は、神の前で己を義としています。

神は、人が御自分に依り頼み、御自分の前で己の無価値を認める場合にのみ、その人の価値を認めたもう(マタ2312参照)。

 

AMハンターは、『イエスの譬 その解釈』INTERPRETING THE PARABLES1960で、

譬の説教例にキエルケゴールの『ファリサイ人と収税人』を引用している。

自らを義とする人間ほど神から遠い者はいない。

「義とされる」はパウロの義認についての教えを暗示する。

これこそまさしくこの譬の主題である。「幸いなのは、神の前に請い求める人たちである」、とイエスは第一の至福の教えで言った(マタイ53)。これは譬にされた至福の教えである。

説教要旨、真の改悛とは、1、「取税人のように、ただ一人で神と共にいること」。ただひとりで神と共にいるとき、私たちは自分がどんなに神から遠いかを認める。

2、取税人のように「下を見ること」を意味する。なぜなら、私たちは神の尊厳と神聖を知る時、自分自身の小ささと弱さを認め始めるからである。

3、「神さま、罪人の私をおゆるしください」と叫んだ時、取税人が気付いたように、「危険の中にいることに気付く」を意味する。なぜなら、私たちはパリサイ人のように全く安全だと感じている時、真に危険の中にいるからである。

 

 私自身が、ケルケゴールの講話を読んで感じたこととは、だいぶ開きがあります。

というより、かなり大きな衝撃があり、それ以外のことは、記憶から抜け落ちてしまったようです。このところでの衝撃は、パリサイ人は、決して一人ではなかった、ということです。徴税人も、パリサイ人もそれぞれただ一人で神殿に昇った、とあります。間違いなく、徴税人は、誰も近寄ることもなく、親しい者もなく、たった一人で祈りました。

 それに対して、パリサイ人は如何でしょうか。

 

パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

 

 キエルケゴールは、このパリサイ人は、決してひとりで立っていない、と指摘します。

パリサイ人は貪欲な人、不正な者、姦淫をする者、取税人その他を引き連れ、足元に引き据え、踏みにじりつつ祈りをささげている。そればかりではない。自らを神の座に立たせている。即ち自分を義とするだけではなく、神としている。裁くことは神の業であるのに。

「自己を判断するのに神の前においてせず人と比較してする場合必ず不当なる自負高慢を生じ、自己を義と信じて他人を軽しめる。パリサイ人はほとんどみなこの種の人であった。パリサイ人と取税人はちょうど正反対の性格を有っている。」黒崎

 

高ぶりと謙りに関わる最後の一文は、譬を一般化するための後世の付加でしょう。

結論を申し上げます。ひとつは、神は罪人を義としてくださる、ということ。

もう一つは、自己義認を究極的な誤りとしている、ということです。

自己義認、自己正当化に始まる独善が、人々の交わりを始まる前から破壊しています。

主イエスは、すべての人が神の前で自分自身を見つめ、行き方を判断するようにと求めておられます。他の人との比較ではなく、また他の人々の評価・思惑でもなく、神は私をどのように見てくださるか、判断しましょう。

 

この譬に対する反応は、「自分がこのファリサイ人のようでないことを感謝します」、という言葉で閉じられるかも知れません。そうなると、まるで漫画になってしまいます。

 

2015年3月1日日曜日

神は裁いてくださる

[聖書]ルカ1818
[讃美歌]433,149,363、
[交読詩編]140:2~8、

 

先週、水曜日午後、札幌へ映画を観に行ってきました。厚別へ来て初めてのことです。

いろいろ感じたり、考えたことがあります。礼拝ですから、少しだけ。

映画の題は《エクソダス、神と王》、脱出という意味で、旧約聖書の二番目の巻物、

「出エジプト記」を題材にしています。

だいぶ昔のことになりますが、セシルBデミル監督が作った『十戒』(1956年パラマウント)、という映画がありました。ユル・ブリンナーがエジプトのファラオ・ラメセス、チャールトン・ヘストンがモーセを演じました。セシル・B・デミル監督は9年余の期間を費やし、その遺作と成りました。これは聖書の映画化という点でも好評で、半世紀以上を経た今でも魅力を感じる人が多いようです。あれは、できるだけ聖書に忠実に、という制作姿勢でした。

 

今回の場合はこの基本姿勢が違います。聖書は素材です。様々なエピソードも利用していますが、映像作家は自由にそれらを利用します。そして自分の映像世界を展開して見せてくれます。要するに、聖書の出エジプト記であろうとしないで、リドリー・スコットの描く《エクソダス》であり、神々と王たちの物語を展開するのです。

 今回の『エクソダス』は、余り人気が無いようです。平日の午後ということもあるのでしょうが、560名の観客、それも若い人の姿は殆ど見られません。現代日本の教会と同じ、ということは当然というべきでしょうか。

 私にとっては面白く、結構楽しめました。それは、この作品をリドリー・スコット監督の描く《エクソドス、神々と王たち》と題されたドラマとして見たからです。聖書のドラマ化なら許せることも、聖書をヴィジュアル化したものと考えると許したくなくなります。

営業妨害する気はありません。「エクソダス」と名付けられたドラマをご覧になるつもりであれば、お出かけください。聖書の映像化、視覚化されたものをご覧になるのであれば、ヴィデオショップで《十戒》をお求めになったほうがよろしいでしょう。

 

 本日の聖書は、ルカ福音書1818節になります。すでに一年以上が過ぎました。まだこんなところ、と言うべきでしょうか。それとも、早くもここまで来たか、と考えるべきでしょうか。少ずつでも、読み続けるならば、大きな聖書も読み終えることが出来ます。毎日1章読めば、1年間で新約聖書を読み終えるでしょう。

 

この18章には、一人の裁判官とやもめのことが語られています。ルカ福音書特有の譬え話です。注意して読むべき部分があります。読んでみましょう。

まず、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が出てきました。ユダヤの国では、訴訟とか争いごとがあれば、町や村の門のところに座っている長老さんがそれを聞き、決まりをつける事になっています。長老と言うのは、公平に裁くことが出来るだけの経験をつんだ人で、たいていは年齢も高い人です。そればかりではなく、ユダヤ社会の中で尊敬されるだけの宗教的な品性人格を有しているものです。イスラエルの律法を守り、神の祝福を得て仕事も家庭も繁栄しているのが普通でした。

 

この裁判官は、どうやらユダヤの長老さんではないようです。神を畏れず、これでは長老にはなれません。旧約律法は、とても人道主義的です。汚れている、とされる人たちのことも守ろうとしています。この裁判官は、法と権利を守るはずなのに、それとは正反対のことをしている人のようです。こんな裁判官がいるのでしょうか。

ユダヤの律法は、裁判は町の門のところで長老によって行われます。必ず複数です。訴える側、訴えられる側から選ばれ、中立の立場からも選ばれたそうです。当時のユダヤの状況を考えれば、この第三の立場は、ローマ帝国の代表になるだろう、と考えます。最終的には総督が代表します。その権限を持たせた代理人を裁判に立ち合わせたことでしょう。この人は、総督に賄賂を贈りその地位を獲得します。従って、裁判の当事者から賄賂を得て、埋め合わせをすることを当然と考えます。賄賂の多い側に有利な裁定を下します。正義も公正も全く省みられることはありません。これがここに登場した裁判官です。

わが国では、判事・検事には高水準の報酬が約束されています。賄賂や人脈などによって判決が曲げられることが無いように、考えられています。諸外国に於いても同じように考えられているはずです。ただし、高額の報酬も感情による予断は防げないようです。

自分一個の利益のために正義と公正をなげうち、裁きを曲げるのがこの裁判官です。

 

もう一人の人物が登場します。一人のやもめです。わざわざ、一人と書いています。強調したいのでしょう。貧しい者、弱い物の象徴と言えるでしょう。普通ならそのような人でも、守ってくれる親戚の者がいるはずです。ルツ記を読むとゴーエール・最も近い親戚、という言葉が繰り返し現れます。親戚は、何事によらず益になるように計らってくれます。この譬に登場したやもめには、こうした助け手、買い戻してくれる人がいませんでした。そのことを「ひとりの」という言葉は、示しています。

 

この女性は、裁判官のところに来ては「自分に有利な裁定をしてください」と頼み込んでいました。やもめ、というだけで守り、助ける者もなく、賄賂を贈る資産もなく、ないない尽くしのこの人は、熱心に、執拗に頼むことしかできません。時も所もお構いなしに、この裁判官を捉まえては頼み込んでいたのでしょう。

はじめは、こんな貧乏人、と思ったでしょうか、相手にしませんでした。それでもめげずにやってくるやもめ、とうとう裁判官も参りました。

「私を散々な目に遭わすに違いない」、ここには暴力的な行動への恐怖があるように理解される言葉が用いられています。身分と格差が法によって守られている社会では、暴力はたいへん恐ろしいものです。一瞬にして何もかも破壊してしまいます。昔も今も変わりはありません。弱く貧しいやもめにも使うことの出来る暴力があります。判事は知っていました。恐れています。「彼女のために裁判をしてやろう。」

  風評の発生、多様なハラスメント、これらも暴力

 

 この譬は、この不正な裁判官が神である、と言うのではありません。

神は、沈黙しておられるように感じられても、必ず叫びを聞き、応えて下さります。

それは、古代エジプトで、奴隷の生活の中での叫びを主が聞いてくださったのと同じです。

悲しみと嘆きと苦しみの中から、私たちが発するうめきを神は聞いてくださる。

ヘブライの詩人も嘆き、祈っています。

 

23我らはあなたゆえに、 絶えることなく殺される者となり

屠(ほふ)るための羊と見なされています。

24主よ、奮(ふる)い立ってください。 なぜ、眠っておられるのですか。

永久に我らを突き放しておくことなく 目覚めてください。

25なぜ、御顔を隠しておられるのですか。

我らが貧しく、虐(しいた)げられていることを忘れてしまわれたのですか。

 

神は、その民のうめきを、嘆きを、叫びを聞いてくださいます。それは、神が私たちの思い通りになることではありません。速やかに救いを来たらせてくださるのです。この譬はそのことを語り、同時に私たちが、救いを祈り求めることを許してくださっていることを教えています。

出エジプトの民は、ちょうどそのような祈りの民だったのです。