2015年6月28日日曜日

全ての人に対する教会の働き

[聖書]使徒言行録11:4~18、
[讃美歌]544、16,299、
[交読詩編]22:25~32、

説教題や聖句選択は、出来るだけ人間的なものを排除したほうが良い、と教えられ、そのようにしてきま

した。久しぶりに聖書日課と向き合い、自分のレベルとは違うものを感じています。とても賢い人の優れ

た知恵が輝いている、と感じています。私自身は、聖書を連続して取り上げ、その中の言葉をそのまま主

題とする形が良いと考えています。

使徒言行録11章は、ペトロの経験を語るもので、10章から続く長い出来事の一部。

重複も多いので短くお話しすることにしましょう

コルネリウスはローマ人だったがローマの神々に絶望し、一家そろってユダヤの神を信じ

ていました。

 すると、あるとき天使が現れて言いました。

「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペト

ロと呼ばれるシモンを招きなさい」。

そこで、コルネリウスはすぐに2人の召使いと信頼する兵士をペトロのもとに派遣しまし

た。ちょうどこのころ、ペトロもある幻を見ます。

 目の前に律法で食べることを禁じられた獣の肉が現れ、「ペトロよ、身を起こして食べ

なさい」と天からの声が言いました。

ペトロは汚れた物は食べられないと三度拒否しました。

すると、神はいいました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたはいってはならな

い」。

 これは、どんな人でも清くない者、汚れている者といって差別してはならないという意

味でした。

 そこで、ペトロはコルネリウスの召使いが来るとすぐに出かけ、コルネリウス一家に福

音を説き明かしました。中心は次のようなことです。

「エルサレムで、人々は、イエスを十字架につけて殺してしまいました。神はこのイエス

を三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。私たちはそのことの証人となる

よう命じられました」。この結果、異邦人も聖霊を受け、水の洗礼を受けました。

さて、エルサレムの教会は、これらのことを聞いて、神はユダヤ人だけではなく、無割礼

の者たちにも聖霊と水の洗礼を授けられたのだ、と理解しました。

この当時、カイザリア、エルサレム世界では、人間はユダヤ人とそれ以外の異邦人とに分

けられていました。コルネリウスとペトロの上に起こったことは、二つに分けることをし

ない、ということでした。これはたいへん大きなことです。とりわけペトロにとっては、

驚天動地のことだったに違いありません。ペトロの世界のコペルニクス的転換といえるで

しょう。それは、ペトロ個人のことでは終わりませんでした。エルサレム教会全体が、旧

約聖書の時代から続いてきた『ユダヤ人だけの選民意識』から脱却することを求められま

した。長く続いた信条、信仰は、殆ど血肉となり、思想となり、生活習慣となってきます



それを捨てて、新しい信仰、信条を打ち立てることになりました。

それこそ、全ての人に救いがもたらされる、ということでした

福音書の日課は、ルカ17:11~18、重い皮膚病を患っている十人の癒し。

サマリアとガリラヤの間を通られた主イエス、ある村では十人の者が、遠くに立ち止まっ

て迎えました。そして呼びかけます。『私たちを憐れんでください』。

イエスは何をするでもなく、

『祭司達のところへ行って体を見せなさい』と言われます。彼らは、噂と違って、冷たい

なあ、と感じたかもしれません。それでも御言葉に従います。そこへ行く途中で癒された

。清くなっている自分を見出しました。

その中の一人は、神を讃美しながら帰ってきた。そしてイエスの足元にひれ伏して感謝し

ました。彼はサマリア人だった、と記されています。多くの人が、何故彼一人なのだ、と

不思議に思ってきました。ある人は、これは、長い間、疑問でした、といいました。福音

書記者は、そうした疑問を想定していた、と言えるでしょう。それに対する答えが書かれ

ています。『彼はサマリア人だった』、これがその答えでしょう。

十人のうち帰って来た一人は、サマリア人だった。理由もなく、わざわざサマリア人だっ

1

たことを書くはずがありません。

他の者たちはユダヤ人であり、エルサレムの祭司達に見せる必要がありました。

十人の集団の中にサマリア人がひとり。同病相哀れむ、と言うが、彼はどこかで仲間はず

れになる可能性が高い。祭司に見せなさい、と言われた時、その引き金が引かれた。

エルサレムとサマリアのゲリジム山は厳しく対立している。ユダヤ人とサマリア人も同様

に対立し、他を退けてきた。重い皮膚病者であった間は、共に病人としてそれぞれの社会

からはじき出されていた。その病気が清められたことを見出した時、彼らはもとのユダヤ

人、サマリア人として別の道を歩むことになります。別の祭司を求めて歩みます。

ユダヤ人から見れば、このサマリア人はエルサレムの祭司に見せることが出来ないので永

久に清められることは出来ない。しかしサマリア人は、自分の体が清められていることを

知り、イエスのもとに帰って来た。イエスの御名を、讃美した。

後の時代は、神学的主張として「キリストの三職」という教理を考え、まとめました。キ

リスト・イエスには、祭司・王・預言者という三つの職務がある。サマリア人は、祭司と

してのキリスト・イエスに体を見せに来た、と考えることが出来ます。

この信仰が祝されました。順序があります。信仰は、自分がすでに救われた、清められた

ことへの信頼でした。そのことを感謝するためにこのサマリア人は帰ってきて、祝福され

ました。救いの宣言が与えられました。私たちもまた、救われることを求めて祈るのでは

なく、すでに救われていることを見出し、感謝することが出来ます。

                                 

旧約の日課も同じように、異邦人の救いを語ります。ルツ記1章です。

大学生の頃だったかと思います。まだ聖書のことはよく判らないころでした。深夜のテレ

ビ番組に『モアブの女』と題された映画がありました。観ましたが、よく判らず、止めて

寝たように覚えます。その後、時々思い出すのは、あれは、ルツ記の映画だったに違いな

い、と感じるようになったからです。

ルツ記の時代は、士師記と同じです。恐らく士師記とサムエル記の間と考えればよいので

しょう。サムエルは預言者であると同時に最後の士師、といわれます。

イスラエルのユダ族にエリメレクという人がいました。連れ合いはナオミ、二人の息子は

マロンとキリオン。飢饉のため、一家はベツレヘムをでてモアブの地へ行きます。エリメ

レクはそこで死に、その後、息子はそれぞれモアブの女と結婚します。オルパとルツです



10年ほどして息子達も死に、女達だけが残されました。

結局、ナオミはルツを連れてベツレヘムへ帰ります。そこで親戚のボアズが、ルツと結婚

し、エリメレクの血筋を残します。

マタイ1:5、「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オ

ベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」

これはイエス・キリストの系図です。ここには、女性の名前が出てきます。外国人または

律法破りの女性です。この人たちが居なければ、次の世代は生まれてこなかったのです。

ダビデが、イエスが生まれなかった、ということを系図は語っています。

神のご計画の中では、ユダヤ人も、異邦人も、罪人も等しく用いられ、清められ、キリス

トによる御救いに与ることが出来ます。すべての罪人の救いです。

『すべて、というときは本当に全部であって、一つも例外はないものなのです』と何かに

書いてありました。聖書関係の書物で、おそらく、主イエスの言葉について考察を加える

ものだったでしょう。主イエスが『すべて』と言われる時、それには何の例外もない。し

かし、私たちの場合はどうでしょうか。様々な例外、或いは保留がついて回るのではない

でしょうか。本日の説教題に「全ての人に対する」とあったので、思い出しました。

2015年6月21日日曜日

個人に対する教会の働き

[聖書]使徒言行録8:26~38、
[讃美歌]544,204,488,77、
[交読詩編]23:1~6、

本日の聖書日課として、使徒言行録が読まれました。これは伝道者フィリポとエチオピア

の女王カンダケの高官である宦官のエピソードです。この直前、7章はステファノの殉教

物語になっています。12人を初めとする弟子たち、信じる者たちは、諸国、各地へ散らさ

れて行きました。信仰者に対する迫害は、福音宣教の一大契機となりました。福音は世界

の辺境から、帝国の首府ローマへと進展して行きます。

弟子の一人フィリポはステパファノと同じ時にギリシャ語を話す者たちのための世話役に

選ばれました。彼は、迫害が起きたため、北の方サマリアへやってきました。ここでステ

ファノは、キリストを宣べ伝え、不思議を行い、町の人々に喜びを与えました。

これに続いて、魔術師シモンがフィリポから洗礼を受けます。

そしてこうしたサマリアの状況を聞いたエルサレム教会は、シモン・ペトロとヨハネをサ

マリアへ派遣しました。彼らが成果を収めてエルサレムは帰った後、フィリポは、主の天

使に示されて、「エリサレムからガザへ下る道に行け」と命じられます。

ここからが、本日の聖書日課になります。

女王カンダケの高官である宦官、イスラエル宗教の考えでは、体に傷がある者は侮蔑され

、その共同体の一員とは認められませんでした(申命23:1)。古代人の知恵は、そうし

た人にも生きる場を用意しています。中国、エジプト、アッシリアなどに共通します。宮

廷の女性たちが生活する場所の管理を委ねられていました。いわゆる後宮・ハレム、日本

では大奥と呼ばれた時代があります。

このエチオピア人の高官がエルサレムに来ていました。時期的には、仮庵の祭りです。多

分、この人も巡礼に来たのでしょう。その帰り道のことです。馬車の中で聖書を読んでい

ました。イザヤ書53章のようです。この頃には、旧約聖書のギリシャ語訳が出来上がって

います。預言書も容易に読むことが出来るようになっていました。ある牧師は、このエチ

オピア人は聖書を読むためにヘブライ語を勉強したのだ、と語りました。とても面白いこ

とですが、当時の状況、ギリシャ語が世界の共通語であった、ということを考えると妥当

性を欠いていると感じます。

馬車の中で聖書を読んでいました(イザヤ53:7,8)。フィリポは側へ行って尋ねます。

宦官は、「手引きをしてくれる人が必要」と応えます。フィリポは同乗して語り聞かせま

す。

この箇所は、仮庵祭りに際して読まれる箇所でした。

フィリポは、イザヤの予言が意味することを教え、それはすでに成就したことも。

たまたま水のあるところに来ました。フィリポは、この人が真心から信じていることを確

信し、洗礼を授けます。

 8:37は口語訳までは本文にありましたが、今回の翻訳に際し、本文から削除したものです。理由は、

 信頼される旧い写本には見られず、後世の教会が、その必要に応じて加筆したもの、と考えられるため



 「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、「イエス・

キリストは神の子であると信じます」と答えた。」272p参照、6世紀の大文字写本バシリエンシス、

バシリエンシス写本は、8世紀に起源し、318枚に四福音書を含む。その名が示すとおり、スイスのバー

ゼル大学図書館に存する。本文型はビザンティン型である。

 

ある人は書いている。砂漠の只中で洗礼を授けることが出来るか?

 この人は、サラサラ流れる砂で洗礼を授ける。私は、その前に、水筒中の水を用いる。

 緊急避難的な儀礼執行、パンとぶどう酒についても考えられる。Dボンヘッファーは、

 処刑される直前、獄中の主日礼拝で水とパンで聖晩餐を執行。

私たちは、このところで、イスラエルの失われた一匹の羊が求められ、見出され、喜ばれ

ていることを示されています。

先週、アメリカのサウス・カロライナ州の黒人教会で、聖書研究中の男女が銃撃され死傷

者発生と報じられました。日本のテレビ局は、キリストに所縁のある教会で、と言いまし

た。すべての教会は、キリストに結ばれています。編集記者はこの程度はチエックして欲

しい。いまだに黒人だけの教会があることに愕然。同じような人同士の結びつきを求める

ほうが優しいし、心地よい。しかし、福音は、宦官が真心を持って告白する時、洗礼を拒

みませんでした。

1

福音書日課は、ルカ書から15:1~10が挙げられています。

見失われた羊、無くした銀貨、見出すまで捜し求めるご主人様

愛を示される。99匹を野に置いて捜す。銀貨一枚以上の値打ちある油を費やしてでも捜す



失われた側は、この自分のことです。しかし、失われていることに気付いていません。捜

し求められていることに気付こうとせず、自ら行方不明になろうとしているのです。

見失われることこそ、現代人の特質などと言って、誇り顔します。

しかしその実際は、自分の居場所を見失い、どのように生きれば良いか判らなくなり、不

安な毎日を送り、アルコールや薬物、ギャンブルの中に逃げ込みます。その結果、精神科

へ、心療内科へ、心理療法へ、カウンセリングへ、となって行きます。

自分が、見つけられた羊、見出された銀貨であることがわかると、愛がわかる。

見出されるために、どれほど大きな犠牲が払われたか理解する。そして、ひとりが見出さ

れた結果、大きな喜びがあることが伝えられる。

旧約の日課は、エゼキエル書34章1-6節『羊を食い物にし、自分を養う牧者』、

 ここはもう少し長く読まないと、その真意が伝わりません。自分自身を養う牧者は災い

である、ということでおわってしまいそうです。これだけでは終わりません。

エゼキエルは、ここで主による新たな救いを明らかにしています。それは、「イスラエル

の牧者」として立てられた国の指導者たちが主から託された群を養わず、ただ自分自身を

養うことにのみ生き、国を滅ぼした彼らの偽りの統治に対する主ご自身による介入によっ

てはじめられる救いです。

彼らは群を養うことをしていなかったのです。その現実は、「お前たちは乳を飲み、羊

毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとしない。お前たちは弱いものを強

めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われた者を

探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らが飼う者がいないので散ら

され、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、

すべての高い丘の上で迷う。またわたくしの群れは地の前面に散らされ、だれひとり探す

者もなく、尋ね求める者もいない。」(3-6節)、というものです。エゼキエルは、それ

を、主なる神の言葉として明らかにしています。

国家の指導者を「牧者」として語るのは、古代オリエント世界全般に見られる考えで、

ハンムラビ法典(前18世紀)の前文で、ハンムラビは自分が「人々の牧者」「牧場と水の

提供者」であることを明らかにした上で、「無法な者、悪しき者を滅ぼし、弱い者の権利

が強い者に奪われぬようにするため」に任命されている、と明らかにしています。同じ調

子が前710年ごろのメロダクバラダンに至る王の碑銘に響いており、これは散った人々を

集める牧者の任務を自覚したものであることを明らかにしています。

しかし、エゼキエルは、イスラエルの牧者のつとめを、以下のエレミヤと同じ牧者につい

ての理解から、そのつとめのあり方を論じています。

「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それ

ゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あ

なたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。

わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。」(エレミヤ23章1,2節



民を牧する指導者がそれにふさわしい務めを果たさないと、その被害を受けるのは民で

す。その結果、民のある者は捕囚とされました。エゼキエルもその一人でありました。ま

た、捕囚を免れても野の餌食にさらされる人々もいました。その難を逃れるために外国に

散っていた人々もいます。しかし、「わたしの群れは地の全面に散らされる」(6節)現

実から民を救いだそうとする主なる神の救いへの意思と決意がここに示されました。

真実の働きをしない「牧者たちに立ち向かい」「彼らに群れを飼うことをやめさせ」(10

節)「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする 」(11節)という

、主なる神の歴史への介入、新たな歴史支配によって実現する事がここに明らかにされて

2

います。

イスラエルの牧者たちの権力の源泉が神にあるとすれば、彼らのその偽りの支配を止め

させるのもまた神です。神は、この歴史の現実に介入し、真の牧者としてのつとめをされ

ることを明らかにされるのです。歴史の主、世界を真に支配されている王なるお方として

の主の救い、慰めと慈しみに満ちた真の牧者としての主の意思がここに明らかにされてい

ます。

ここに見られる大牧者としての主イエスの意思は、「わたしは失われたものを尋ね求め、

追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えた

ものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(16節)というものです



今、私たちは、捜し求められ、見出されていることを共に感謝しましょう。

交読詩編が、本日の詩編日課となります。150編の中で最もよく知られているものでしょ

う。

人生の四季を舞台にして、いつでもこの詩編23編が登場し、ぴったりはまります。

ある日本人は、これを現代社会における詩に移し変えました。

    多忙な人たちのための詩編23編   トキ・ミヤシナ

「主は、私の歩調を定めてくださいます。私は慌てません。

主は私を立ち止まらせ、おりにふれて静かに休ませてくださいます。

主は私の心を静かな思いで満たし、曇りなきものとしてくださいます。

たとい毎日多くのことを成し遂げなければならなくても、

私は苛立ちません。あなたが共にいて下さるからです。」(後略)

このように素晴らしいお方が居られます。

本当に主としてあがめ、共に歩みたいものです。

2015年6月14日日曜日

キリストを信任する教会

[聖書]使徒言行録4:5~12、
[讃美歌]544,441,472、
[交読詩編]52:3~11、

本日の説教題は、《キリストを信任する教会》です。教会暦に従いました。

違和感があります。ネットで検索して見ました。幾つかありました。読んでみましたが、

私の違和感を払拭するものはありません。一ページしか見ていません。もっとあるはずで

す。その中に大阪・玉出教会説教ライブラリーが出ていました。

2007年6月17日、説教者・持田行人牧師。あの頃も教会暦に従う説教を試みていたようで

す。その始めに、今回と同じことが記されていました。進歩がありません。

違和感があること、新しいことを試みるのは良いこと、その意図を説明して欲しいこと、

それがなされていない場合新しいことは独善になってしまう。私としては、随分思い切っ

たことを書いています。

何故違和感を覚えるのか、ということからお話いたしましょう。7年超の間変わっていな

い、進歩していない、ということにもなりますが、教会暦、聖書日課を作る側、提供する

側も、何もしていないことです。PCの時代です。たまにはネット検索をして、どのように

利用されているか、検証してもよろしいのではないでしょうか。

さて、違和感はどこから発生するのでしょうか。単純な言葉の感覚です。

《キリストを信任する教会》、信任する。どういう意味でしょうか。辞書では、「信頼・

信用して物事を任せること」。

普通どのように使っているでしょうか。余り思いつきません。内閣不信任案が提出された

。衆議院で内閣信任投票が行われることになります。

諸外国間で外交官の信任状奉呈があります。特定の人を外交使節として派遣する旨を記し

た公文書。派遣国の元首または外務大臣から接受国の元首または外務省にあてて発する

。(わが国では、日本国天皇の名による)

日本国があり、特定の人物を信頼して国の代表に任じました。どうぞ貴国に於いてもその

旨信任していただきたい。元首の名が記されていれば、その元首の代理人ともなります。

外交官、大・公使、の信任状接受は天皇の国事行為の大事な部分となっています。

「外国の大使及び公使を接受すること」(第7条第9号)

9号の 「 接受 」 とは、外交使節に対して、接受国として反対のない旨の意思表示(アグレマン

)を与え、 その信任状を受ける行為をいいます。

これで判ることは、まず国、国家があって、そこが信頼し、派遣する。それを相手国が受

け入れる、ということです。

「キリストを信任する教会」ということは、始めに教会があって、その教会がこのキリス

トは私の代理人として信頼する。その故に派遣しますので、あなたのほうでも信頼して大

丈夫ですよ。受け入れてください、ということになります。

本日の旧約の日課は、申命記8:11~20です。

出エジプトの民が、荒野での40年に亘る試練の時を経て、間もなく約束の地、乳と蜜の流

れる地、カナンへ入ろうとする時期のことです。

40年の間に、エジプトの奴隷であった諸民族が一つとなりました。卑屈な者たちが、自立

・自由の民となりました。何時の間にやら偶像礼拝者になっていた者たちが、唯一の主、

ヤハウェを礼拝し、ヤハウェに従う者となっていました。

8:11 わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意し

なさい。12 あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、13 牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が

豊かになって、14 心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジ

プトの国、奴隷の家から導き出し、15 炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ

野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、16 あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べ

させてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。

8:17 あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。18 むしろ、あ

なたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われ

た契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。19 もしあなたが、あなたの神、主を忘れ

て他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言

する。あなたたちは必ず滅びる。

8:20 主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御

声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。

天地の創造主、エジプトから民を導き出されたヤハウェこそまことの神、このほかのもの

1

を主なる神としてはなりません。カナンの地に住みつくと、あなた方は豊かになる。その

とき、自分の力と手の働きで、この富を築いた、などと考えてはならない(8:17)。他

の神々に仕えてはならない。後の預言者は、イスラエルの神ヤハウェは、妬むほどに愛す

る神である(申命4:24、参考イザヤ42:8)、と語ります。

現代の豊かな世界が忘れているものを指摘されているように感じます。自力でこの豊かさ

を作り出した。自分の思い通りにして何が悪いか。怠け者共のことは関係ない。彼らは、

自業自得だ、苦しむが良い、泣くが良い。

これは、自分の力、手の業を神としてあがめている状況です。滅び去るでしょう。

福音書の日課は、ルカ8:40~56、会堂長ヤイロの娘と長血の女の癒しの物語です。

ヤイロの娘は12歳、長血の女は12年このかた出血が止まらない。娘は、有力者の家で希望

に溢れ、命に満ち満ちて生きていました。ちょうどその同じ期間、一人の女性は、血の穢

れある者として、ユダヤの共同体・社会から締め出されていました。12という数は、ユ

ダヤでは重んじられています。然し、ここでは何の意味も与えられていないでしょう。

同じ期間がある人には希望、他の人には絶望の時間であった、ということは確かです。

この二人を、主イエスは命へと回復させられました。

そこで必要だったものは、ただ信仰でした。主は、長血の女に言われます。

「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。この信仰、ヘー ピスティス スー を、

『信頼』と訳すものがあります。どちらも正しいのです。信仰とは、信頼することです。

長血の女と会堂長は共に、イエスに対する深い信頼を持っていました。最後の拠り所とし

ていたのです彼らは、もはや自分の力には頼ることが出来ませんでした。社会が、そして

個人が豊かになったとしても、それを自分の力だ、と思い込み、自分を誇り、依り頼むこ

とがあってはなりません。

第三の聖書日課、使徒書は、使徒言行録4:5~12です。これは3章「美しの門」における

、足の不自由な男が癒された物語から続きます。ペトロとヨハネは、人々に語っています



「あなた方が十字架に付けて殺したイエスを、神は甦らされて救い主となさった。私たち

は、このことの証人です。」復活の証人として語っています。そのため捕らえられます。

祭司、神殿守衛長達、彼らはユダヤの宗教と伝統の保持者であり、守護者です。サドカイ

派の人たち、ユダヤの富裕層で、政治的にも有力な貴族階級。然し律法に関しては、余り

熱心ではなかった、と考えられています。これらの人々は、自分たちに都合の良い、特権

的な地位を守るために、イエスのことを語らない様に使徒たちを捕縛・投獄しました。

それでも使徒たちは断言します。足の不自由な男が癒されたのは、あなた方は殺したが、

神が甦らされたナザレのイエスによるのです。

「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです

。」

キリストの名、それ以外に救いはありません。力強い宣言となりました。

キリストが、私たちを見出し、救い、わが友と呼んでくださっている。

この方こそ私の主であり、招いてくださった方であり、派遣してくださっている。

他のものや、事を並びたてようとすることは間違いです。

私たちが大きな力を持ち、イエスを信任して何事かを行わせるのではありません。

力のない者たち、裏切るような者たちを信頼してお委ね下さる方がおられるから、懸命に

努力して、招きに応え、派遣命令にも従うのです。

宗教改革の3大原理として有名なのが「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恩寵のみ」です。

聖書のみ、信仰義認、万人祭司・・・マルティン・ルター

聖書によってのみ、信仰によってのみ、栄光のみ、

聖書によってのみ、信仰によってのみ、恩恵によってのみ、

どうして3つあるのにそれぞれ「のみ」が付いているかというと、ローマの教会では「聖

書と聖伝」、「信仰と行為」、「恩寵と自由意思」というように、「~と・・・」の形を

とっており、そこに不純な考え方が見られたので、ルターはより純粋なキリスト教に戻す

ことを考えました。そこで、それぞれ「聖伝」、「行為」、「自由意思」といった自力的

側面を排し、あくまでも神の愛と力にゆだねる立場を「のみ」という言葉で示したのです

。これが「福音主義」と呼ばれる新しいキリスト教のあり方になりました。「聖書」、「

信仰」、「恩寵」(=恵み)は神と同じで「三」にして「一」であり関連し合っています



2

私たちは、イエスこそ私の救い主と信じます。信任ではありません。

キリスト・イエスは、誰によっても派遣されることはありません。私たちが、使命を与え

られて、派遣されます。自分や、他のいかなる権威、権力も私たちに同じような力を揮う

ことはできません。

信頼に値しない者を、駄目人間さえ、恩知らずさえ、神は信任し、御自身の使者としてお

用い下るのです。《教会を信任するキリスト》と題してお話しました。

ヴォルムスの国会での証言・1521.4.18・

最高の権威―

not教皇中心の教会・カトリック・but聖書のみ・sola scriptura・

聖書のみ=信仰と生活の唯一の無謬の規範・・宗教改革者たちの共通の確信

2015年6月7日日曜日

教会の一致と交わり

[聖書]使徒言行録2:37~47、
[讃美歌]544、206,393、
[交読詩編]133:1~3、

ペンテコステ・五旬節の日に、ペトロが群集に向かって説教をしました。
その最後、36節で、説教が何をするのかがわかります。
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架に
つけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
人間達の所業は、イエス殺しに結びつくことが告げられました。聞く者の中には、十字架
の出来事には、一切関係していなかった人もいたに違いありません。ペトロもそんなこと
は知っていたでしょう。それでも、「あなた方が十字架につけて殺したイエス」と語りま
す。
ルカが、この言行録を書いたのは、テオフィロが総督であった頃、またパウロがローマの
獄中にあった頃、と推測します。実際は不明ですが紀元64年の「ローマの大火」以前でし
ょう。パウロは各地に伝道し、教会を造り、説教し、手紙を書き、イエスの出来事を語り
、そのことの意味を教えています。パウロは、福音の出来事の目撃証人であり、その伝達
、証言者。また、その出来事の解釈者でもありました。
その中に、イエスの十字架は、全ての人の罪の贖いである、ということがありました。ほ
かならぬあなたの罪です、自分には罪などありませんとは言えないでしょう、あの時、あ
の場所にいたらあなたも十字架につけろと叫んだでしょう、その罪を赦すのがイエスの贖
いです。神はこのイエスを主、救い手・メシアとされました。
イエスこそ、この世界の主である、ことを証言する。宣言、告知する。
ペトロの説教は、その後のキリスト教会の説教、宣教の原型となりました。
この説教の結果、何が起きたでしょうか。群衆は大いに心打たれました。そして、自分た
ちは、いま何をすればよいか、尋ねました。目には見えない聖霊の働きの、目に見える結
果です。ペトロは、群衆の言葉に応え、勧めました。
悔い改めなさい、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば聖霊を受けます。
このとき洗礼を受け仲間に加わった者は、およそ3000人。弟子たちの人数などさまざまな
ことを考えると、どのようにしたのかなあ、と不思議に思います。彼らが集まっていた家
に押しかけた群衆のうち3000、洗礼場所、水。どうやら「白髪三千丈」の類かと感じます

どれほど誇大な表現であっても、そこには事実の核があったはずです。多くの者が仲間に
加わった。そして42節は、彼らが、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈るこ
とに熱心であった、と告げています。
教会の始まりです。十字架につけられ葬られ、甦らされて救い主・キリストとなったイエ
スの出来事の証人たちの群れです。彼らが力と勇気を獲てキリストを証言する時、教会は
歩み始めました。その始めは、洗礼を受けることでした。洗礼は、キリスト教徒となるた
めに教会が執行する儀式。全身を水にひたすか、または頭部に水を注ぐことによって罪を
洗い清め、神の子として新しい生命を与えられるあかしとする。
ある牧師はこのように書いています。
「洗礼は、わたしたちの決意や決断に先立ってある神の決断の中に自分があることを受け
入れていくことなのです。神の決断とは、「イエス・キリスト」を通してわたしたちにあ
らわされたものですが、どんな時もわたしたちを愛し抜き、支え抜き、わたしたちを背負
い抜く神の決断のことです。この神の決断がわたしたちの決断を生み出していくのです。
わたしが神を見つけ、わたしが「この神ならだいじょうぶ」といって選んだのではなく、
神がこのあやふやなわたしを愛し、背負い続けてくださる。そこに信仰の根拠があり、わ
たしの決断が生まれていく源がある、ということを感謝して受け容れて行く、そこで洗礼
へのわたしたちの決意が生まれていくのです。」菅原力(弓町本郷)
新しく仲間に加わった者たちと共に、彼らは使徒の教えを聞くことを喜びました。新しい
仲間の知らないイエス・キリストのことがたくさんあったからです。語る使徒たちも、話
すことで新しい意味を見つけました。忘れていたことを思い出しました。使徒たちの教え
も豊かになり続けました。
相互の交わり、知らなかった者たちが、互いに理解を深め合いました。悩み、苦しみ、弱
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さを理解しました。何を喜びとしていたかも知りました。何を支え、どのように助ければ
よいのか知らせました。安心が支配するようになりました。その中心にあったのが、
パン裂きです。これが主の晩餐の古くからの呼び方です。当時の食事の仕方を示すもので
しょう。この頃、食卓には大きな丸いパンが置かれたようです。それを主賓から始めて、
取り分けて行きます。主の「最後の晩餐」の時もそのようにされたはずです(ルカ22:14
以下)。主キリストの体に加わる、と考えた時、彼らは温かく慰められるものを感じたこ
とでしょう。
彼らは祈ることを喜び、熱心でした。当時のユダヤ人たちの伝統は、ルカ18:9以下に記
されます。熱心な信仰者ファリサイ人と徴税人が祈っています。どちらも立って祈ります

違いがあるとすれば視線の先のようです。徴税人は、「目を天に上げようともせず」とあ
ります。下うつむいて祈ったのでしょう。ファリサイは、それとは違って目を天に向けて
いたようです。信仰に熱心な人たちは、普通眼を天にあげたようです。
たぶん、「主よとく来たりませ、マラナ・タ」という祈りはしばしばささげられたことで
しょう。
43節の「全ての人に」という言葉は、私たちに戸惑いを引き起こします。どの範囲のこと
でしょうか。すべて、といえば全てだろう、と考える人もいます。信者達、それ以外の人
も含むエルサレム中の人だろう、と考える場合もあります。私は、この場合、地域などで
限定する必要はない、と考えます。そこで起こったことに集中すればよいのです。ここで
は、恐れが起こったのですから、恐れた人はすべてと言っているのだ、と考えています。
信じるようになった人たちは、その信仰に於いて、心が一つになっています。
彼らは共同生活をしました。消費共産制、という場合もあります。生産的ではありません
。消費面での共同生活でした。これは永続する形ではありません。いつの間にか消えたよ
うです。
この頃の教会は、神殿に参加していたようです。そして神を讃美しています。ユダヤ社会
の人たちからも好意をもたれていました。信仰に熱心な気持ちよい人たち、と評価されて
いたのでしょう。
もう一つのことが書き加えられます。「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた
」。
ここには伝道活動のことは何も記されていません。ただ、最初の信者達の礼拝行為が記る
されているだけです。心を一つにして、パン裂きをし、神を讃美していました。
神が、仲間を加えてくださいました。
本日の福音書聖書日課は、ルカ14:15~24となっています。
 14:15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと
幸いなことでしょう」と言った。 14:16そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうと
して、大勢の人を招き、 14:17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意
ができましたから、おいでください』と言わせた。 14:18すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑
を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 14:19ほかの人は
、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言
った。 14:20また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 14:21僕
は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や
路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさ
い。』 14:22やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言う
と、 14:23主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱい
にしてくれ。 14:24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいな
い。』」
12~15節でお話になった教え(お返しすることの出来ない人々を対等な者として招き、一
つの食卓につくこと、パン裂き)を、譬の形で判りやすく展開しておられます。
大宴会が開かれます。多くの人々に招待状を送りました。当日、時刻になりました。当時
の習慣で、迎えの者が送られました。すると招かれていた人は、次々と断り始めました。
畑を買った、五頚木の牛を買った、妻を迎えたばかり、あらゆる理由をつけて断ります。
いずれも、もっともに聞こえますが、随分失礼なことに感じられます。重大な用件であれ
ばあるほど、もっと早くに判っているでしょうに、と感じます。要は、この招かれている
宴会よりも、自分の利益のほうが大切だったのです。宴会のために、自分の予定を変えよ
うとは、考えなかったのです。
案の定、宴会の招待主は怒り、しもべに命じます。
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『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を
ここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があり
ます』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をい
っぱいにしてくれ。
主の食卓に招かれた多くの力ある人々は、その持てるものの故に招きを退けました。いま
や、招きは何の力もない人々に向けられています。招かれ食卓に着いた人々、その信仰が
認められ、義とみなされます。  私たちすべてが、招かれています。招きを無駄にしな
いように、お応えしましょう。メソジスト教会では、聖餐式のとき、招きに答えて、前に
進み出て膝まずきます。これが、ニーリングですが、目に見える形で応えようとしていま
す。残したい伝統です。
「教会とは、聖徒の交わりであり、説教が正しく語られ聴かれ、聖礼典が正しく執行され
受領されるところに存在する。」
 (アウグスブルク信仰告白より(ルター派信条)・ 
招きに応えて、進み出ようではありませんか。キリストの喜びが、天にあります。