[讃美歌]200、132,457、
[交読詩編]31:15~25、
[聖書日課]箴言25:2~7a、ルカ14:7~14、
本日の聖書日課には、箴言が見られます。これは大変珍しいことだ、と感じています。
皆様が、ご自分で箴言を読むことが出来るように、箴言の概説から始めましょう。
箴言に関しては、辞典類のほか、松田明三郎(あけみろう)先生の『箴言』私訳と解釈、ケンブリッジ旧約註解、二冊だけです。松田先生は、詩人としては、詩集『星を動かす少女』を残されました。先生の『箴言』が出版された時、余り関心はありませんでした。1967年、修士論文も書き終え、任地はどうなるか、希望と不安が交錯する頃です。
箴言は、勉強することもなさそうだが、売れそうもないので、売り上げに協力しようと考えて購入し、書棚に上げていました。本当は、箴言の註解書は、これまでもなかったし、これからはもっと出版されないだろう、と考えたからでした。
時折手に取りますが、実に丁寧に仕事をしておられます。
私が先生の講義を伺ったのは、脳内出血のため休職され、やせ細ったお体で復職された時でした。申し訳ないことに、先生の声も小さく、滑舌が不自由でよく聞き取れませんでした。お元気な時は、この註解書のように綿密で明快な講義をなさっておられたのでしょう。
同級生が言いました。「松田先生は、お元気な頃は、恰幅もよく立派なものだった。背広だってダブダブになっているだろう。あの頃の講義を聞かせたかったなあ。」
さて名称です。箴言、当たり前のこと。
ある時、小学校の退職校長が礼拝の司会に当たりました。「交読文35、かんげん8章」。「かんげん・・・」、そのあとどうしたか、記憶には残りませんでした。
以来、考え続けています。あの文字には「かん」という読みがあるのではなかろうか、と。感動の感の字、箴言と同じ部分を持ちます。これが、かんではなかろうか、と。
戒めの言葉。教訓の意味をもつ短い言葉。格言。「箴言集」
旧約聖書の中の一書。道徳上の格言や実践的教訓を主な内容とし、英知による格言・金言・勧告が集められたもの。ソロモンその他の賢人の言葉と伝えられる。知恵の書。
ここからは、主に松田先生の著書によります。
「箴言は、旧約正典の三つの区分、律法トーラー、預言ネービーム、諸書ケスビーム、のうち第三区分に属するものである。第三区分が最後に完成したのは紀元90年ヤムニアにおけるラビの会議においてであったが、紀元前132年までに大体の形が出来ていたことは、ベン・シラの孫が、祖父の箴言集の緒言において、「他の諸書」という句で律法、預言と共にその存在に言及している事実によって証明されている。
本書が正典として第三区分に加えられたのは「預言」の成立(紀元前250年頃)以後における旧約のある時期である。知恵文学は、賢人或いは知者と呼ばれる人々によって産み出された文学である。エースタリーは古代エジプトやバビロニアにも、この類の階級の人間が存在していた事実を挙げて、イスラエル賢人の起源も余程旧いものであろうと推論している。
イザヤ29:14、エレミヤ8:8~9、ヨブ29:7~25、イザヤ55:1などはこの賢人に関わることである、と指摘している。
彼ら賢人は、マカベヤ戦争以後の国粋主義的風潮の中で衰退した。彼らの語ることは、世界主義的超民族的、純粋な倫理的教訓であったため。
イエスの教えの中には、賢人の特徴中最善のものが、摂取されている。」
ヘブル詩の形態は五つの観点から考えられる、とする。
韻律、教え歌、アルファベット歌、面白いと感じたのは「ヘブル詩の並行法」
1行目と2行目を対比していますが、邦訳聖書では分からないようになっています。
日本語聖書は、詩を改行せずに長く書き出しています。
同義的並行法、第1行と2行とがその思想内容において並行。箴言7:1
7:1わが子よ、わたしの言葉を守り、/わたしの戒めをあなたの心にたくわえよ。
8:1知恵は呼ばわらないのか、/悟りは声をあげないのか。
反語的並行法、同じく思想において相対立する詩型。箴言13:9,12:2 8、
13:9正しい者の光は輝き、/悪しき者のともしびは消される。
12:28正義の道には命がある、/しかし誤りの道は死に至る。
総合的並行法、第2行が第1行の思想を総合してゆく詩型、思想の点では真の並行とはいえない。後にいたり、形式的並行法と名付けられた(グレイ)。1:10,18:13、
1:10わが子よ、悪者があなたを誘っても、/それに従ってはならない。
18:13事をよく聞かないで答える者は、/愚かであって恥をこうむる。
この書物の面白さは他にもあります。「聖書的箴言の資材的考証」という章節があります。
- 自然の観察より得た資材 2、人間世界の観察より得た資材 3、異邦世界の知恵文学より得た資材(エドムの知恵、エジプトの知恵…アメン・エム・オペの教訓と対照、バビロニアの知恵…アヒカルの知恵と対照)著者と年代に関しても丁寧な考察を加えておられます。省略箴言は、現在の一巻の形になる前には七個の箴言集として存在していた。本日の日課、25:1~29:27は、その第4集に属します。前半25~27章には世俗的なものが多く、後半28~29章では、倫理的・宗教的な面が強調されています。25:1には、ヒゼキヤの家臣が筆記したものとありますが、その歴史的真実性が認められています。したがってこの集の年代は、紀元前8世紀の終わりに近い頃と見られます。少し内容的なことを、ご一緒に考えて見ましょう。箴言、教訓を集め、編集したもの。ずいぶんカタックルシイのだろうな。昔の論語と同じだろう。あんなもの、とてもじゃないが読んでいられません。勘弁してください。そうでもないのです。面白いもんですよ。青年時代の記憶27:6、「愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。」イスカリオテのユダを思い出しました。そのあと30章、31章は「ヤケの人アグルの言葉」となっています。30:18は、不思議に堪えないことを四つあげています。「はげたかの道、蛇の道、舟の道、男の女にあう道」がそれです。ふーン、そういうものか、と感じたものです。31:10以下は、賢い妻を見つけることは大変困難だなあ、と悲観的になった覚えがあります。倫理的な教訓を集大成したものですが、それだけではありません。人間の能力、努力が全てを成し遂げるのか、と言えば決してそうではない、と言います。3:5「心を尽くして主に信頼せよ。自分の知識に頼っては成らない。全ての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言の底流には、神がこの宇宙、世界、社会のすべてのものを創造され、支配され、保たれ、導いておられるという信仰があります。その意味で、箴言が説くのは現世利益的な助言というような類ではありません。その証拠に箴言の作者たちは、人間の知恵では、はかり知れないことがあることを認めていました。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(19章21節)「主の向かっては、知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たない」(21章30節)また、箴言の作者たちは、富や財産、名誉よりも、重要なものがあることも知っていました。「正しく歩む貧しい者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」(19章1節)いかに成功や富を得るかが第一義的なことではありません。あくまで重要なのは、すべてを導く神の意志なのです。神の創造、支配、保持を信じて、誠実に生きていくべきであるという生活が勧められているのです。25章1節~29章27節は「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」となります。「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」は、ソロモンより約200年後のヒゼキヤ王の時代に編集されたものと考えられます。松田先生の註解にあるとおりです。ある注解書には、ヒゼキヤに大きな影響を与えたのは預言者イザヤ(イスラエルの貴族アモツの子)であり、そのイザヤ的な思想が25章2節には含まれていると指摘されています。「事を隠すのは神の誉れであり、事を窮めるのは王の誉れである。」(25章2節)松田先生の解釈を引用しましょう。第二イザヤの預言にも「イスラエルの神、救い主よ、まことにあなたは、ご自分を隠しておられる紙である。」(45:15)とある(ヨブ11:7参照)。またこれはパスカルが『パンセ』の中で取り扱っている主題である。「人間は神から遠ざかっており暗黒の裡にいる。また、神は人間から知られぬよう身を隠していたもう。さうして〈隠れたる神〉(イザヤ45:15)、これが神の神自らを呼びたもう名前である。(津田穣訳『パスカルの言葉』)ワイブレイは、この節を次のように訳しています。「神の栄光は物事を隠しておくことであるが、王の光栄はそれらを測り知ることである。」神秘は神の本質であり、良き王は世論に耳を傾ける。ワイブレイに対して異議を申し立てます。まことの王は、神の秘密を明らかにして、人々を指導します。ある国の総理大臣は、おもてなし、を合言葉に競技大会を招致しました。時期は8月に設定されています。主要な施設建設において、冷房施設を経費節減のためとして排除しました。世論を重んじた、と言うでしょう。何を大事にするべきか明らかにして、説得するのが政治の役割です。この人は、全てを隠す神の如きものになっています。神が隠しておられることは多すぎて、考えることも出来そうにありません。ひとつだけあげてみましょう。私たちの命脈は何時尽きるのでしょうか。私自身のことを申しますと、ある時期から70歳まで、と考え定めていました。生活設計も。病気の時72歳まで生かしてください、と願いました。今は、それを過ぎて不明です。生かされるならば生きて、求められるならば働こうか、と考えています。それでも何時までか、わからないままです。期限は不明、でも確実に迫っている。よく生きて、よく死にたい。”人間はいつかみな必ず死ぬ”、誰もが日一日と死に近づいている。無限に生きることは出来ない。人生には命によって期限が設けられている。それまでの間をどのように生きようとしているだろうか。私のしたいことは何か、私がすべきことは何か、見出しているだろうか。招かれた宴席で上座に着くことではない、人々の賞賛を受けることでもない、富や権力を握ることでもない。創造者が、どのように評価してくれるか、この視点を忘れてはいないだろうか。私が、なすべきことを、誤らずにして行きたい。なすべきことこそしたいこと。この考え、この信仰をご一緒に歩みたい。