2015年12月27日日曜日

東方の学者達

[聖書]ガラテヤ32647
[讃美歌]259,266,367、
[交読詩編]145:10~21、
[聖書日課]イザヤ11110、マタイ2112

早いものです。間もなく暦年の一年間が終わります。

本日は、教会暦では降誕節第一主日です。当然、降誕の記事が読まれるだろう、と期待されていたのではないでしょうか。指定されたのは、伝道者パウロによるガラテヤ書です。

ガラテヤ書は、パウロ書簡の中でも大変有名です。宗教改革者たちは、これを『戦闘の書』と呼びとりわけ愛した、と伝え聞きます。また、四つの獄中書簡の一つとしても敬意を払われています。福音信仰の中心的な事柄を力強く述べています。ただ、そこにはイエス・キリストの具体的な生涯は語られていない、と感じます。福音書ではありませんから、それも当然でしょう。しかし、よく読むと意外なことが語られています。

 

44以下は、パウロによる降誕物語である、と言われます。

「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたし達を神の子となさるためでした。」4:4~5

 

パウロは、キリスト・イエスがすべての人間のひとりとして生まれること、しかも律法を奉じる民族に生まれ、その支配・拘束・制約のなかにある者たちをそこから救い出し、神の子となさることが目的である、と告げています。

 

本日の主題は《東方の博士たち》。マタイ21以下も読むことになります。

東の博士たち、占星術師、占星術の学者達。

原語は、マゴイ、マゴスの複数形。マゴスは、①魔法使い、魔術師、②メディアの一部族マゴイに属する人、世襲的に神に仕える階級、ペルシャ宗教に帰化したがなお彼ら特有の旧い宗教習慣をもち、占星術や夢占いその他の技術によって知られていました。

 

[学者] 聖書に精通しこれを解釈し、また律法上の難問に答える職をもっていた。原語gramateusで口語訳ではこれを律法学者と訳しているが、この訳語はnomodidaskalos(文語訳-教法学者、口語訳-律法学者)nomikos(文語訳-教法師、口語訳-律法学者)と混同しやすい。大差はないにしても区別を示す方が望ましい。

 

東の国は「日の昇る国」、

ここではしばしばバビロニア人のことを考えます。そこでは星辰崇拝が行われていました。

当時人々は、黄金時代を将来すべき偉大な世界王を熱望していました。そのこともあり、バビロニア人の占星術師たちが、カナンの運命を一所懸命問題にしたことも知られています。彼らは、英雄は西国に生まれると期待していたのです。

紀元後66年に、アルメニアの学者王トウリダテスがローマにやって来てネロ皇帝を拝した。

このローマ行きは、星ぼしが彼に期待されていた西の国の世界王を指し示したと言うことに基づくものです。   シュニーヴィント

 

それにしても、この学者先生たちは凄い人たちです。

学問研究によって知り得た事を直ちに実行する。占星術の研究と考えられますが、当時の世界では、最先端を行く科学です。現代の物理学、天体の動きを調べ、分析し、地上の動きに関係するものを見つけ出そう、としています。人々の知らないことを先んじて知ることが出来、教え、伝えることが出来ました。多くの人々の尊敬を集めていました。

多くの人たちが、彼らに協力しました。西の国で世界の救い主がお生まれになる、それを調べに行く、と言えば上から下まで協力者が現れます。

 

大規模な旅行の仕度が整えられます。費用もかかります。寄付もあったでしょう。自ら備えていたものもあったでしょう。贈り物は、自分たちの心からのものを整えました。

この人たちは、国にあって権力を振るうようなことはなかったと考えられますが、権威者として尊敬を集め、豊かな生活を楽しんでいました。

ユダヤへ行っても、その土地の人々の尊敬を受けました。権威を認められました。

東方の国の学者が、ヘロデ王に会いたい、と言うと直ぐに叶えられました。凄いこと。

ヘロデ王、 ヘロデ大王と呼ばれ、エドム人であってローマ党であり、有名な残虐の暴君であった。ユリウス・カエサル暗殺後の帝国内乱では、オクタヴィアヌス後のアウグストゥス帝に味方した。

ヘロデ・アンテパス(マタ14:1)およびその弟アケラオ(マタ2:22)は共にその子でヘロデ・アグリッパ第一世(使12:1)はその孫、アグリッパ第二世(使25:13)はひ孫に当たる。

 

イエスの誕生日は天文学的計算の結果、紀元前742日である(O・ゲルハルト『メシアの星』1922年)。

  計算上の仮説は、イエスの受難の日とマリアへの受胎の日が同じ日であったと考え、その日を3月25日であったとするもので、これに基づいて、受胎の日から9か月後の1225日にイエスが生まれたとするものです。

 宗教史による仮説は、異教の祭りをキリスト教化したとする立場です。ローマ皇帝アウレリアヌスは274年に、ローマ暦の冬至に当たる1225日に不滅の太陽神の誕生日(dies natalis solis invicti)を祝う異教の祭りを導入しました。その後、4世紀初めにキリスト教がローマ帝国で公認されると、教会はこの日を、「正義の太陽」(マラキ320)であり「世の光」(ヨハネ812)であるキリストの誕生を祝う日と定めたというものです。その背景には、異教の太陽神の誕生祭からキリスト者を引き離そうとする意図があったともいわれています。『典礼暦年と典礼に関する一般原則』 ローマ・カソリック教会

 

ベツレヘム、 エルサレムの南56キロのところにあり、ダビデの生まれた故郷であってダビデの所と称せられた「パンの家・場所」という意味、黙2:1-7参照。小麦の産地

 

ミカ書52. 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたは ユダ氏族の中で最も小さいものだが、あなた. のうちから、わたしのために、イスラエル の支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」.

サムエル下5:2先にサウルがわれわれの王であった時にも、あなたはイスラエルを率いて出入りされました。そして主はあなたに、『あなたはわたしの民イスラエルを牧するであろう。またあなたはイスラエルの君となるであろう』と言われました」。

 

三博士の名は、西洋では7世紀から次のような名が当てられている:

メルキオール Melchior (黄金。王権の象徴、青年の姿の賢者)

バルタザール Balthasar (乳香。神性の象徴、壮年の姿の賢者)

カスパール Casper (没薬。将来の受難である死の象徴、老人の姿の賢者)

これは英国の作家チャールズ・ディケンスが、『もう一人の博士』に採用して、よく知られています。

 

シリアのキリスト教会では、ラルヴァンダード Larvandad ホルミスダス Hormisdas グシュナサフ Gushnasaphが対応しており、ペルシア起源を強くほのめかしているが(例:ホルミスダス=アフラ・マズダー)、真偽は定かではない。アルメニア正教会では、カグファ Kagpha バダダハリダ Badadakharida バダディルマ Badadilma

エチオピア正教会では、ホル Hor カルスダン Karsudan バサナテル Basanaterが対応する。

 

旧約聖書が、東の方角にどのような役割、意味を与えているか考えて見ましょう。

まず、エデンの東です。この地は、はじめの男と女が、エデンの園を追放された行く先でした。そこでは、アダムとエヴァの二人の子どもカインとアべルが礼拝をめぐって仲たがいし、カインが弟アべルを殺してしまう。不安と恐怖、暴力と殺戮の土地

 

次は「ニムロデ」です(創世記10:8)。彼はハムの子孫で地上で最初の権力者となったと聖書は記しています。ハムに下された呪いはこうです。「カナン(ハムの子)はのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。」(創世記9:25)と。しもべとなるようにとの宣告を受けたからこそ、ハムとその子孫は権力ある者となろうとしたのかもしれません。神の呪いに対する人間の応答は、いつの時代でも権力を得ようとすることに現われます。人間の権力は神にそむくその心のかたくなさから生じる実です。

地上で最初の権力者となったニムロデは大いなる建設者です。「彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。彼はその地からアッスリアに出て、ニネベ、・・・大いなる町レセンを建てた。」(創世記10:1012)

この後、人々は、バベルの塔を建て始めます。自分たちの名を高め、自分たちの意志を貫こうとしました。

 

現代の我々は、東から博士たち、と聞いてどこか安心してはいないでしょうか。われわれ自身東の住人だし、光は東方より来る、と聞くし、というわけです。聖書はメソポタミアから見た東方は安寧の地ではなく、油断できない、暴力と騒乱の地であると語ります。

学者達は、この地を出発して、平和の光を求めました。彼らにとって西方にこそ平安がありました。ベツレヘムの飼い葉桶に眠る嬰児に、平和の光を見出しました。彼らは、平和の内に悦びに包まれて帰ることが出来ました。

今、わたし達にも平安への道が開かれています。道は誰にも見出すことが許され、歩き出すことができます。勇気をもって、はじめの一歩を踏み出しましょう。主は待っておられます。

 

 

 

 

[時が満ちる] 「時の満盈(まんえい)が来れる時」と直訳さる文字、満盈(まんえい)plērōma についてはコロ1:19参照。

[遣し] exapostellō 天より派出し、派遣すること。

[女より生れさせ] 普通の人間として生れ給うたというような意味で、必ずしも処女懐胎・処女降誕を伝えるものではありません。

[律法の下には] アブラハムの裔としてユダヤ人の中に生れ給えることを指しているけれども、同時に56節等より見るなら、異邦人もある意味において律法の下にあり、キリストは異邦人をも贖い給うことを意味していると見るべきであって、「律法の下に生れ」はこの意味において広義に解する必要がある(L3)。

 

第二節と同様に神は人間を律法の下に閉じ込め置くべき期間を自ら定め給うた。而してこの期間において人類、殊にユダヤ人において、律法より解放されるための準備ができていた。これが時満ちた有様である。この時神は一人の人間として、殊に律法の下にあるユダヤ人として御子キリストを天より遣わし給うた。神がその約束を実行し給うたのである。

神がその独子を世に遣わし給う場合に前節のような途を取り給いし所以は、律法の下にある者をその奴隷の状態より贖い出し、彼の子たる身分を私たちに賜いて、わたし達を養子とし彼と同じく子たる身分を取得させようとの思召しに外ならなかった。

辞解

[律法の下に在るもの] 文字上よりはユダヤ人を意味すれども広義においては一般の律法の下に在るものにも及んでいる。

[我ら] ここに第一人称に転換せるは自己およびガラテヤの教会の信徒に関する重大な経験を叙述せんがためである。  [子たること] huiothesia は養子とすること。

 

この文章には、アダムの子カインが自分の弟のアベルを殺した後で、神の御顔を逃れて、エデンの東、ノドの地に住んだという背景が前提にあります。ノドの国とは実際には存在しません。しかし、ヘブライ語の字義どおりの意味では、ノドは「流浪の地」という意味です。つまり、カインはどこかに落ち着き、居住することを願うのですが、それがかなえられずにたださまよい続けている。安らかさを見出したいという願いを持ちつつ、自分の居場所をたえず尋ね求め続けて、そのような生き方を意味するのが、「ノドの地(放浪の地)に住む」ということなのです。

このような視点でみると、「イエスが、・・ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来た」(2:1)のはとても深い意味があると思います。私たちはしばしば「博士たち」と彼らが導かれた「星」や「ささげた物」に注目してしまいがちですが、ここでは「流浪の地から」、すなわち「東の方から」やって来たというところに私は焦点を当てたいのです。

カインの住んだ「放浪の地」は、神に呪われた地でもあります。エリュールは、「自分を守るために町を建てる者は、カインの子であり、その意志を受け継ぐ者である」(前掲書、50)と述べています。その最初の有力者は「ニムロデ」です(創世記10:8)。彼はハムの子孫で地上で最初の権力者となったと聖書は記しています。ハムに下された呪いはこうです。「のろわれよ。カナン(ハムの子)。兄弟たちのしもべとなれ。」(創世記9:25)と。しもべとなるようにとの宣告を受けたからこそ、ハムとその子孫は権力ある者となろうとしたのかもしれません。神の呪いに対する人間の応答は、いつの時代でも権力を得ようとすることに現われます。人間の権力は神にそむくその心のかたくなさから生じる実です。

地上で最初の権力者となったニムロデは大いなる建設者です。「彼の王国の初めは、バベル、エレク・・であって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は・・・に進出し、・・・レセンを建てた。それは大きな町であった。」(創世記10:1012)。シヌアルとは掠奪と破壊の地であり、ニムロデの支配のはじまりの場所です。彼は権力を打ち立てようとするにあたって、掠奪をほしいままにし、次々と町(都市)を建てていきます。権力意識、征服と都市の建設の切り離せない関係。ここに神に背いて立つ権力意識のあらわれを見ることが出来ます。



創世記14章には、シヌアルの王を中心にして、諸王の連盟が結成され、やがて他の国々の王たちに勝って、ロトを奪い去りますが、アブラハムがシヌアルの王を打ち破ってロトを救出します。そしてサレムの王メルキゼデクがアブラハムを祝福しに来ます。つまり、メルキゼデクはシヌアルの王とは反対の位置にある「平和の王、義の王」なのです。

マタイは、東方から来た博士たちが、最初に訪れたのは、ユダヤの王ヘロデのいる宮殿でした。このことはとても意味深く思います。ヘロデは彼らに「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」(マタイ2:8) これは全くの偽りであり、ヘロデのずるがしこい策略でした。ヘロデはただちに祭司長や学者たちを集めて、キリストがどこに生まれるかを問いただしました。すると彼らはミカ書から「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)と答えました。キリストの誕生を知ったヘロデが自分の王位が脅かされることを知って、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子をひとり残さず殺害したことは聖書が伝えるところです。

旧約の歴史において、御子イエスの到来までは、イスラエルを脅かす者たちは、常に「東」からやって来ました。アッシリアもバビロンも然りです。しかしヘロデの場合、自分の王の座を脅かす知らせをもってきたのは東方からやって来た博士たちであったとは皮肉なことです。

 

2. 王としての権威と富と知恵なる御子イエスへの礼拝

 

東方からやって来た博士たちは、星によって幼子イエスのもとに導かれ、王位の象徴である「黄金」を幼子イエスにささげました。また「乳香」は御子イエスの生涯の純粋さを象徴するものです。そして「没薬」は死んだ人を葬る時に使うものですが、御子イエスの苦難の生涯を象徴するにふさわしいものでした。東方の博士たちは、御子イエスに最もふさわしい贈り物をたずさえて来て、それをささげたのです。

東の方、すなわち「ノドの地」(放浪の地)に住む人々を代表する博士たちが、この幼子イエスにあって、はじめて安住の地を見出すことができたと言えます。彼らは、神に呪われたがゆえに、権力的支配を求めようとする輩の地からやって来て、礼拝すべき真の支配者、権威と富と知恵に満ちた真の王を、メルキゼデクに等しい方を幼子イエスのうちに見たのです。

 

2015年12月20日日曜日

キリスト降誕

[聖書]ヘブライ10:1~10、
[讃美歌]259、旧101、268,260、
[交読詩編]113:1~9、
[聖書日課]ゼカリヤ2:10~13、ルカ1:57~66、(祝会261)

本日は、待降節第4主実ですが、クリスマス礼拝を守ります。何処から始まった習慣なのか判りません。本来、クリスマス礼拝は25日になってから守るはずです。ローマ教会を尊敬できるとすれば、そのような旧く、良い慣わしを守っていることです。今でも、函館のトラピスト修道院ではクリスマスの真夜中の礼拝を行っています。先日伺った折、松本牧師夫妻は、出席の約束をしておられました。24日夜、出かけて、25日になって礼拝する。ここ札幌でも、山鼻の教会をはじめ各所で、深夜ミサを行っているはずです。み子の御降誕という喜びを、その感謝を、分かち合うために。

 

このクリスマスに与えられたのは、ヘブライ人への手紙です。私にとっては初めてのことです。この手紙には、降誕の記事はないし、難しい、と感じていました。

101以下にあるのは、み子の降誕はどのような意味をもつのか、ということです。

神の御子が、まったき人となって生まれることにどのような意味があるのでしょうか。

 

すべてに超越する絶対の神が、人間世界に内在し、相対的な存在となるのが降誕物語です。

神は神だから超越のままとどまっていればよいではないか、余計なお世話、と言われるかもしれません。小さな親切、大きな迷惑、という言葉もありました。その答えは、

「神の独り子は、人間にはどうしようもないこと、最終、究極の問題に解決をもたらすために世に降られました」ということです。

 

その問題というのは、罪です。古代イスラエル人は、人間の一番最初の問題も罪だった、と考えました。紀元前10世紀でしょうか、イスラエルはダビデ・ソロモン両王のもと統一王国となり、民族の歴史上最大の領土を支配し、繁栄を誇っていました。そのさなかに書かれ、語られ、教えられたのが創世記の2章から5章にいたる部分です。他にもたくさんありますが、これらはJ資料、ヤハウェ資料と呼ばれています。男と女の創造、エデンの園、禁じられた知恵の木の実、蛇は女を、女は男を誘惑、責任転嫁。

これらは目撃証言のはずはありません。古代人の信仰告白です。全人類に通有性・普遍性があります。

神は天地を創造し、6日目に自分をかたどって人を造った。(ここまでは祭司資料、紀元前6世紀)。

土の塵で人を造りアダムと名付けた。アダムの肋骨から相応しい助け手として女を造った。男の名はアダム、女の名はイヴ。ヘブライ語では土をアダマ、命をエバという。二人はエ デンの園で暮らしていた。

神は「この園にある全ての樹の実を食べても良いが、善悪の知識の木の実だけは決して食べてはならない」と命じられた。

ある日、エデンの園でイヴは、蛇にそそのかされて禁断の木の実(善悪の知識の木の実)を食べてしまった。イヴはアダムにも食べさせた。すると、2人は自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしさのあまり体をイチジクの葉で隠した。

神は、約束を守らなかった罪(原罪)により、二人を楽園から追放し(失楽園)、蛇を地を這う動物とした。女には産みの苦しみが与えられ、苦労して地を耕さなければ食料を得ることができなくなった。

 

日本人の多くは、創世記を読んで、おとぎ話か古事記のような神話に過ぎない、と軽く見ることでしょう。これは古代イスラエル人の罪の告白です。そして、われわれ日本人はこの罪の告白を拒絶する傾向が強いのです。

 

だいぶ以前のことになりますが、日本人論が盛んに論じられたことがあります。会田雄次教授の『アーロン収容所』、イザヤ・ベンダサン実は山本七平氏の『日本人とユダヤ人』などを皮切りに、多くの書物が読まれました。そうした中で、こんなことが言われています。

『日本人は罪の意識に耐えられない。私は地獄に落とされるほどの悪人ではない。かと言って、極楽へ行けるほど善人でもないことは認めよう』。日本人の罪意識はこの程度。

 

聖書は、これとは全く違うことを告げています。罪がない、と言い張るところに罪がある。

姦淫の最中に捕らえられた女、をめぐるエピソードが記されています。ヨハネ8111

7節「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

人間である限り何かしら罪は犯しているのですから、この女性の周りにいた大人達、イエスを試みようとしていた者たちは、返す言葉がなかったことでしょう。

「年長者から始まって、・・・立ち去ってしまい・・・」

長老と訳すことができる言葉が用いられています。権威を認められている人々です。

人間は歳月を重ねて賢くなって行きます。それは自分自身を省みて、真実の姿を認めることに現れます。はじめに立ち去った年長者の姿にそれを見出し、心が熱くなります。

イエスの言葉により自分自身を再発見し、恥ずかしく感じた人。幸いな人です。

 

形式的正義は人を善に立帰らせることができず、濫りに人を裁いて自分自身も裁きに遭うより他になく、真の正義は自ら人の罪を負いてその罪を赦すことができる。この二者の間に根本的な違いがある。

 

ヘブライ人への手紙は、罪の赦しをはっきりと告げています。

本書は、手紙とされています。然し手紙の通常の形態をとっていません。挨拶もなし、名宛人もない、発信人もない、事情の説明もない。ないない尽くし、何も判らない。

そうした中で、この手紙はパウロによって書かれた、と長い間信じられてきました。

最近の学者は、発信人不明と考えています。

 

受取人、受信人と想定されるのは

10:32-34からは一度迫害にあったこと。その迫害はそれほど過酷なものではなかった(12:4)が、再び迫害にあう可能性が予見されている。(1213131213

一部の人々は神殿における儀式にはもう参加していない(10:22)。いまだに儀式に参加している人たちはそれによって自らの信仰が揺らいでいる。

 

こうしたことから、受信人はおそらくユダヤ教から改宗したキリスト教徒でありながら、迫害を恐れ、再びユダヤ教へ戻ることを考えている人々、と考えられます。著者はユダヤ教の動物の犠牲はキリストの十字架での犠牲の後では意味を持ち得ないことを強調し、「幕屋の外で」(すなわちユダヤ教を離れて)キリストに従うことを求めています。  

動物の犠牲ではなく、み子イエス御自身を犠牲に捧げることによって、神からの罪の赦しをいただくのです。罪人は、神と和解することができるのです。

み子が降誕した意味はここにあります。

 

ドイツの詩人シレジウス(162477は、次のように表現しました。

『キリストが千度ベツレヘムにお生まれになっても、

あなたの心の中にお生まれにならなかったら、

あなたの魂は捨てられたままです』

キリストは私達の信仰の創始者で完成者なのです(122)

 

 

 

 

 

ヨム・キプール(手短に)  または ヨム・ハキプリーム

いつ         2014104日、実際は103日の日没から

何をする  一日断食して、神様に罪の許しを願う祈りをする日

特徴1     断食の日、水も飲まない、顔も洗わない、歯もみがかない、ひげもそらない

特徴2     子どもと病人は多少食べる

             白を基調とした服がベスト

知っ得     シャバット(安息日)と同じ扱い。最も厳格。公共機関・交通・お店はお休み。

旧約聖書の 『ヨナ書』 が読まれる。

 ヨム・キプール(詳しく)

贖罪日は新年の10

 ユダヤ暦ティシュレー月の1日と2日は、ユダヤ新年です。そしてティシュレー月の10日はヨム・キプール (Yom Kippur) と呼ばれる「贖罪日」になります。今年(2014年)は104日が「贖罪日」です(正式には Yom HaKippurim)1年で最も厳粛な日でもありますから、「大贖罪日」とも呼ばれます。

(注意)「ティシュリ」と表記されている解説もあるようですが、正確には「ティシュレー」です。

 

2014104日がヨム・キプール

「大贖罪日」? 「贖罪日」?

 「大贖罪日」と聞くと、別の「贖罪日」もあるような印象を受けますが、この「大」は大小という発想ではなく、最も聖なる厳粛な日という意味合いを表す意味で「大」が付けられています。

 歴史的には、צומא רבה [tsoma rabba] とも呼ばれ、「大断食の日」とも呼ばれていました。この伝統から、「大贖罪日」という習慣が残ったとも推測されます。

 

贖罪日の始まり

旧約聖書の中では贖罪日について次のように述べられています。

 

 特に第7月の10日は贖罪日であり、

 あなたがたのための聖会の日である。

 あなたがたは身を戒め、

 火による捧げ物を主に捧げなければならない。

                    (レビ記2327節)

 

 第7月、つまりユダヤ新年から10日目が「贖罪日」です。正式には9日の日没から、翌日10日の日没後星が出る頃までになります。

 

 さらにレビ記16章には贖罪日に大祭司が神殿にて行う儀式について細かく述べられています。

 

 

ことによると、これは日本の教会だけのことかもしれません。御殿場教会の原簿には、「この者、陪餐停止」という文字が何回も出てきました。礼拝よりも隣組や水利組合の会合を大事にしたためだ、と聞きました。教会員には農業の方が居られません。商業などに従事する方だけでした。農業者は、この教会に居場所を見つけることは困難だったでしょう。

明治以降、來日した外国人宣教師達そして日本人伝道者達は、堅固な習慣という日本の現実を知り、さまざまな事柄で譲歩しました。葬式の前夜式、欧米には見られません。社会の風習、仏教のお通夜に譲歩。

聖餐式の回数もそのひとつです。資料がなくて推測になりますが、明治期の教会は、「聖餐の群れを形成する」ことを目指していました。端的に言えば、聖餐礼拝を目指したことになります。それはさまざまな事情・現実の前で崩されました。毎月一回はまだ良い方でしょうか。来れない人たちへの配慮、と聞きました。それでは来ている人への配慮はどうするのでしょうか。