2016年1月10日日曜日

イエスの洗礼

[聖書]ヨハネ12934
[讃美歌]280,55,431、
[交読詩編]36:6~10、
[聖書日課]、イザヤ4219、エフェソ2110

本日の教会暦主題は、ローマ教会の典礼原則を継承しているものと考えられます。

『典礼暦年と典礼に関する一般原則』という文書、ローマ・カソリック教会の公式文書。

そのうちの、「典礼解説・降誕節」部分には次のようにあります。

降誕節

32 例年の過越の神秘の祭儀に次いで教会が行ってきた最古の祭儀は、主の降誕の記念と、主の初期の公現の追憶である。これは、降誕節中に行われる。

33 降誕節は、主の降誕の「前晩の祈り」に始まり、主の公現後、すなわち、1月6日の直後の主日まで続く。

38      1月6日直後にくる主日は、主の洗礼の祝日となる。

 

イエスの受洗【主の洗礼】

 (上述したように、・・・省略部分)ヨルダン川で洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けた出来事の記念は東方教会が起源であり、主の公現の出来事の一つとして祝われていました。やがて、ローマ教会で占星術の学者たちの来訪を1月6日に独立して記念するようになると、主の洗礼もその1週間後の1月13日に個別に祝われることとなり、1969年の典礼暦の改定までこの日に祝われていました。

  現在の一般ローマ暦では、主の洗礼は1月6日直後の主日に祝います(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」38参照)。日本では、上記のように主の公現の祭日を主日に移動するので、移動された主の公現の祭日直後の主日に主の洗礼を祝います。ただし、主の公現の祭日が1月7日か8日にあたる場合は、その翌日の月曜日が主の洗礼の祝日となります。降誕節はこの主の洗礼の祝日をもって終わり、翌日から「年間」が始まります。

[A年]

第1朗読 イザヤ421-4, 6-7 見よ、わたしの僕、わたしが喜び迎える者を

第2朗読 使徒言行録1034-38 神は、聖霊によってイエスを油注がれた者となさった

福音朗読 マタイ313-17 イエスは洗礼を受けると、神の霊が御自分の上に降って来るのを御覧になった

 

この一般原則では、受洗の祝日(ABC年)の朗読聖書にヨハネ福音書は用いられてい

ません。マタイ・マルコ・ルカ福音書が、この順に用いられています。

 

さて本題に入りましょう。舞台は、「ヨルダンの向こう側のベタニア」とされます。

エルサレムの東、オリブ山を越えたところのベタニアは有名です。マルタとマリア、ラザ

ロの村。今回はヨルダンの向こう側です。エルサレムを中心に考えています。東側

トランスヨルダンのベタニア、ここと、3261040に現れます。

「イエスはまたヨルダンの向こう岸、即ち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に

行き、そこに滞在しておられた。」1040

主が洗礼を受けられた場所は、ヨルダン川の東西二箇所が考えられています。ほぼ向かい

合うところです。6世紀中ごろまで、東岸にアタナシウス帝(518年没)によって建てられ

た《小四角教会》があり、西岸の《聖ヨハネ修道院》の場所と向かい合っていた。残念な

がら、東岸にベタニアという地名は発見されていません。

 

322以下によると、主イエスはユダヤ地方で、多くの人にバプテスマを授けていた、とあ

ります。それにも拘らず、イエスは実際、バプテスマは授けていない、と多くの学者は考

えています。

同じ箇所に、ヨハネは、「サリムの近くのアイノンでバプテスマを授けていた」と語られま

す。このアイノンという地名も知られていません

 

ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネの証言は繰り返されます。しかし、イエスがバプテスマ

を受ける場面はありません。たとえば、マタ315には、次のように書かれます。

「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々にふさわしいことである」 。そう言って洗礼を受けられたのです。しかしヨハネ福音書にはありません。ローマ教会が、「受洗の祝日」の朗読聖書にヨハネ福音書を選ばない理由が判ります。とすれば、教団の聖書日課はどのような理由付けをするのだろうか、興味が湧きます。

 

三福音書(共観福音書)イエスの受洗に際し、神は三つの徴をもって、メシアの自覚を保証されました。

1、 天が開け、2、聖霊が降り、3、天からの声が聞こえた。

 

一般的に、洗礼とはどのような意味を持つのでしょうか。

洗礼、水による清め、すすぎは諸国・諸民族、諸宗教に見られます。

衛生思想が発展するにつれ、普通のこととなる。例えば、参拝前に手を洗うこともすすぎの儀礼だったものが、手を綺麗にすることへと変化。

 

水の洗い、穢れを清める、穢れを取り除く、脱ぎ捨てる。そして新しい衣を着ることになる。即ち、キリストを着ることになります(ローマ131214)。また復活のキリストに生かされる者になること示されます(Ⅰコリント155354)。

Ⅱコリント524、ガラテヤ327等参照

こうしたことで、水による洗いは、異教徒がユダヤ教に改宗するとき行われました。

汚れた異邦人は洗われなければならなかった。旧いものを脱ぎ、新しい衣を着る。

 

洗礼者ヨハネは、自分の方へやってくるイエスを見て、言いました。信仰の告白。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。これはもう一度136に現れるが、それだけ。

  いろいろな意味が考えられています。択一ではなく総合するべきでしょう。

過ぎ越しの祭りに捧げられる「過ぎ越しの小羊」

神殿で毎日捧げられている贖罪の小羊

預言された苦難の僕

偉大な勝利の象徴としての小羊

 

福音書記者は、洗礼者ヨハネが、「知らなかった」ことを繰り返しています。

何を知らなかった、というのでしょうか。

イエスが『神の小羊』であること、私よりも先に居られたこと、このどちらか一つではなく、二つを考え合わせたものであろう、と考えます。先在の神の小羊、と言えるだろうか。ヨハネは、イエスを知っていました。

親戚の男子、半年後に生まれた、これは知っていました。人間的なことは知っていたが、そこには神的な深い意味が隠されていたことを今知った、ということです。

 

福音書記者は、洗礼者ヨハネが神の小羊にバプテスマを授けたとは言わない。洗礼に際して霊がイエスに降ったとも言わない。しかし福音書記者は、霊が降って来てイエスの上に留まったということを、力いっぱい強調する。洗礼者はこれを神的な徴として見ました。即ち、このかたこそ神の子である、ことの徴であると証言するのです。

 

証言することによって彼は、自分にとって悔い改めの洗礼を授けることも、洗礼者と呼ばれることも、洗礼の形式も、全く問題ではないことを明らかにします。

彼は洗礼者と呼ばれるよりも、先駆者ヨハネと呼ばれる方がふさわしいのです。

彼は、神の子イエスの証人であることが、福音書記者によって明らかにされました。

証人であることが、明らかにされることも重要なことではありません。全ては背後に退いて、あのイエスが、神の子キリストであることを示すことこそ、最重要なことです。

 

今、私たちは、キリストを信じる者として、いわば弟子として立っています。終わりまで主に仕えようとしています。8日(金)キ保連札幌の研修会、詩編23を説教。

汝のしもと、汝の鞭、我を慰む。牧者が持ち、外敵と戦う武器だから、私の慰めとなる。

羊である教師は同時に牧者となる。そのとき、武器は何か。聖書、愛、または祈りだ。証人に必要な武器も同じ。これをもって牧場へ、荒野へ出て行こう。主守りたもう。