2016年1月17日日曜日

最初の弟子たち

[聖書]ヨハネ13551
[讃美歌]280,8,510、
[交読詩編]119:9~16、
[聖書日課]サムエル上3:1~10、ガラテヤ1:11~24、

 

『典礼暦年と典礼に関する一般原則』というローマ・カソリック教会の公式文書。

ローマ教会の公式文書は、教会暦の由来・定め、守り方などを、大変丁寧に説明しています。神学校では、ローマ教会には、司祭の挙措動作まで規定するものがある。教団では、そこまでは不要だが、牧師の個人的経験や考えで気ままに行っているのは、改善した方が良い、と語る教師が居られました。その後、新しい式文の出版もありました。まだ試行版のままです。各地の教会が試しに使って、評価することが求められている段階かな、と思いますが、少々長過ぎるかな、と思います。

 

主イエスが弟子たちを選び、招かれたことは、共観福音書で読んできました。

新共同訳聖書は、大変親切です。小見出しをつけて、内容を要約し、捜しやすくしてくれました。これは便宜上のものですので、礼拝の聖書朗読では読まない方が良い、とされています。更に、福音書の場合、同じ記事がある箇所を小見出しの下、カッコ内に示しています。

したがって、弟子たちの選任の記事は、マタイ、マルコ、ルカにあったはずだから、ヨハネ福音書の本日の小見出しの下にあるだろう、と思ってそこを見ると何もありません。

驚きました。

 

私たちは、同じ人たちが選ばれ、招かれ、弟子となるのだから同じ出来事と考えます。

2:13~22、「神殿から商人を追い出す」、ここには並行記事が三箇所記されます。

135以下に関しては、恐らく学問的に、並行記事と認めることが出ないのでしょう。似てはいるが、同じではありません、と言われているようです。異なる部分があることに注意しながら読みましょう。私たちは、同じところを見つける方が力づけられる、と考えています。しかし、違う部分からも福音の力を受けることができるはずです。

 

13542、ここでは、前回と同様洗礼者ヨハネの言葉「見よ、神の小羊だ」が記されます。

それを聞いたヨハネの弟子・ふたりは、イエスに従って行きます。ここにはイエスの招きもないし、ふたりの心情も語られていません。弟子になるには主イエスからの招き、召命

が必要だ、と考えてきました。この二人の弟子は、自分たちのそのときの考えだけで弟子となろうとしているようです。これは、共観福音書の語るところとだいぶ違います。

主は彼らに尋ねられます。「何を求めているのか」

 

この問答には、食い違いが見られます。

ふたりは、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」。彼らは夕方になった、自分たちの泊まるところを確保しようとしている。一宿一飯を求めています。

イエスは、彼らの思惑などに関係なく、付いて来れば判るよ、COME  AND SEE

彼らは、人間的な求めをもって答えました。その求めは、満たされました。人間として生きるための必要は、叶えられます。『主の祈り』では、日毎の食べ物が与えられるよう祈ることが教えられました。主イエスは、彼らの求めに応えました。そこで終わりません。彼らを弟子として生きる道へと導かれます。

 

マルコ11620、マタイ41822、ルカ5111をご覧ください。

場所はガリラヤ湖畔、シモンやゼベダイの子らの居住地、ベツサイダの岸辺でしょう。

主イエスは、「人間をとる漁師にしよう」、と言われます。それを聞いたのは、シモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ。この四人です。マタイ、マルコはほぼ同じように語ります。ルカは、疲れ果てた漁師達に奇跡を示され、彼らを弟子にします。アンデレの名前は見られませんが、この人の名前はしばしば抜けています。

 

同じ福音書でもはじめの三つと四番目ではだいぶ違う、ということをご理解いただけたでしょうか。ここでもう一つ混乱させるようなことを申し上げます。お赦しください。

『共観福音書対観表』という本があります。ヨハネ福音書も入っています。全部ギリシャ語で、説明が必要な場合はドイツ語です。これを見ると、ヨハネ13551は、「四人の漁師を弟子とした」出来事の並行記事となっています。

新共同訳は、並行記事とは認めないようです。

 

シモンの改名の記事を読みましょう。ヨハネより前の時期に書かれたマタイ福音書16章。

聖書では、改名は救いの歴史で新たな役目を神から授かることを意味します。創世17参照

イエスの意図はマタイ1618が明示しています。

 

マタイ16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 

大変難しい問題が出て来ました。第一は、「ケファ、岩という意味、」主イエスは、お前は岩だから、教会・エクレーシアの礎です、と言われました。長い間、東西の教会は、岩とされた人物、ヨハネの子シモン・ペトロがその人格によって、教会の礎石である、と信じて疑いませんでした。

十字軍の時代以降、教会の様々な問題が露わになりました。免罪符販売、教皇の堕落に始まる聖職者の腐敗。

ルターは、ローマ教皇の権能に問題を感じ、討論の主題を提起しました。

当時は、ルネサンス教皇と呼ばれる教皇が輩出しました。人間味のある、自由闊達な人たちだった。民衆は支持し、期待した。サヴォナローラでさえ、アレッサンドロ6世に期待しました。裏切られます。期待する方が悪い。

 

それらに対して改革者達は、岩とされるのは、あの時のペトロの告白である、と主張しました。告白か、人格か、私たちは告白と考えてきました。人間には到底淘汰ゆすることのできない難しい告白。主イエスによって、神の霊によってなされるものとされた告白。

あなたこそ生ける神の子キリストです。この告白の上に、キリストの教会は建てられます。

 

第二は、鍵の権能と呼ばれることです。赦しの権能がペトロの後継者、歴代の教皇にある

との主張です。どんな問題も、教皇が赦せば、すべて赦されます。

一般に、ローマ教会の信徒は離婚は認められません。特例として、教皇がその婚姻の無効を宣言することがあるようです。

ある信徒が話してくれました。旧長老主義教会で受洗し、戦後数年して改宗しました。

「司祭様にいろいろお世話になりましたからねー」

「私たちはいい加減であっても良いの、大丈夫なの。教皇様がいて、全部お許しくださるから。意見の違いがあり、争っていても、教皇様がおっしゃるとおりにすれば、収まるから心配なし。新教は、争いばかりでお気の毒。」

なるほど、そういうところで惹き付けられるのか、と納得。

しかし私たちは、神と人間の間にキリスト以外の仲保媒介者がたつことを拒絶します。

教会の中に身分・階級制度が存在することも拒絶します。

全ての人は、キリストによる贖罪を必要とする罪びとです。

51節は、ヤコブの夢を描く創世記2812と殆ど同じ。

ヤコブの見た梯子の代わりに、これからはイエスが天地を結ぶ唯一の仲介者となることを示しています。