2016年1月31日日曜日

いやすキリスト

[聖書]ヨハネ5118
[讃美歌]280、18、511、
[交読詩編]32:1~7、
[聖書日課]ヨブ23:1~10、ヤコブ1:2~5、

 

いやす、いやし、最近目立つ言葉の一つです。爆買いよりもっと古く1980年代頃から用いられています。漢字を用いるなら、治癒・癒着など治療・医療系の文字で表します。癒し系のタレントがもてはやされています。20世紀末頃から始まった言葉。それ以前は安らぎ系と表現されていました。

多くの人が犬や猫などにいやし効果を認めています。それどころかロボット・アシモフ君などを超可愛い、として癒し効果を認めています。

多忙で、ストレス、プレッシャーの多い時代であることの証拠のように感じられます。

 

私自身は、鈍感な性質のためか、余りストレスも感じませんが、それでも、いやされる空間を感じてきました。ひとつは富士山です。10歳ぐらいから、豊島区の大塚に住みました。高台で、縁側に立つと、西の方角に池袋を越えて富士山が見えました。視力を養うには、遠くを見ると良い、と聞いて、富士山と馴染みになりました。神学校の寮生活は1年半だけでしたが、ここでも西の方角に富士が見えました(東に東京タワー)。卒業後は、暫くご縁がなかったのですが、富士山麓、御殿場教会に赴任しました。毎日富士山を仰いで生活しました。私にとっては、素晴らしい2年半でした。富士を見ると心が落ち着きました。

多分最近、多くの人が言われる「癒される」ことだったのでしょう。

 

東京生活の中では、もうひとつ癒しがありました。電車に乗って原宿まで。降りるとそこは明治神宮内苑入り口。神宮の森は、代々木が原と呼ばれた荒地を、大正4年から造林した人工の原始林だそうです。素晴らしい森です。その中に明治帝のお妃、昭憲皇太后様が愛された御苑があります。その中には、最近パワースポットと呼ばれるようになった『清正の井戸』があります。

 

明治神宮御苑は、江戸時代初期熊本藩主加藤清正、後に彦根藩主井伊直孝の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内庁所管となり代々木御苑と称されていました。 ここの菖蒲田は、 明治天皇が明治30年、苑内の隔雲亭で静養される 皇后のために、 全国から菖蒲の優良品種を集めて植えさせたものです。

明治天皇は御苑について次のようにお詠みになりました。

「うつせみの 代々木の里は しづかにて 都のほかの ここちこそすれ」

菖蒲田の外れ、その外に清正の井戸があります。加藤清正は築城の名人として知られています。彼は庭造りにも優れ、ここのほかにも目白の椿山荘にも井戸を掘り当てています。癒される思いがするところです。

 

地所に寄れば、癒しとは、肉体的・精神的に疲労している状態において疲労回復をもたらし心地よいと感じることの出来る物事・要素を指す。

 

新約聖書の日本語訳の中にイエス・キリストが人々を「癒した」という記述が何度も出てくるように、本来は宗教的な奇跡(奇蹟)的治癒を行う動作の意味で使用されており、「癒し」という名詞での使用はあまり一般的ではなかった、とされます。

1980年代を中心とした「癒しブーム」以降に頻繁に使用される「癒し」という言葉は、宗教学や宗教人類学で、未開社会の暮らしを続ける人々の間で呪術医が、病に陥った人を治す悪魔祓いの行為について言ったものだといいます。上田紀行の『覚醒のネットーワーク』(かたつむり社 1990年)で、セイロンの悪魔祓いについての言及の中で使用されたのが、この言葉の今日のような用法での最初だとのこと。こちらの意味では、なんらかの原因で、地域社会や共同体から、孤立してしまった人を再び、みんなの中に仲間として迎え入れること、そのための音楽や劇、踊りを交えて、霊的なネットワークのつながりを再構築すること、これこそが癒しだといいます。

 

ヨハネ福音書5章は、ユダヤ人の祭りがあった、と記されます。ユダヤの三大祭は、過ぎ越し(麦の収穫の初め)、五旬節(収穫期の終わり)、仮庵祭(ブドウなど果物の収穫)

いずれも農業祭でありながら、出エジプトの出来事に結び付けられ、ヤハウェを讃美するようになっています。ここでは、多くの学者によって過ぎ越しであろう、と推定されています。

 

場所は、エルサレム城の『羊の門』の傍ら。エルサレムの城門は合計8箇所ありますが、北に向かってダマスカスゲート。シリアのダマスカスへ行くための門。東は、オリブ山を越えて朝日が神殿へ射し込む門、ゴールデンゲート。その間、東北隅にあったのが『羊の門』です。後にステパノ門と呼ばれたようです。

この近くにベテスダ(口語訳)或いはベトザタと呼ばれる池があります。ベテスダは『憐れみの家』を意味します。ベトザタは『オリブの家』を意味します。旧い、優れた写本はベトザタなので、これに従います。その傍らには、病人や、からだの不自由な人が大勢集まり、横たわっていました。

 

ここに38年間も病気のため苦しんでいる人がいました。恐らく、初めの頃は家族が一緒にいて、面倒を見ていたでしょう。水面が動いたとき、最初に水の中に入れば病気が良くなる、と伝えられているから、何とかして入れてやろう、と考えていました。病気の苦しみを共有するものがいたのです。そして38年間。ひとり減り、ふたり減り、誰もいなくなったようです。意地悪でもない、悪意でもありません。弱って行くのです。付き添って、お世話する力が失せるのです。

4節の最後に十字のマークがあります。ギリシャ語聖書にも同じものがあります。「ネストレ25版までの本文」、即ち、翻訳底本とされた写本の信頼できる旧いものはこれを欠いている、ということです。新共同訳の場合、その文章はその書(ヨハネ福音書)の最後212pに記載してある、ということです。

 

主イエスは、この病気の人と出会います。問われます。「良くなりたいか」。

下手な質問です。良くなりたいからこそここにいるに決まっています。そのように考えるのは、38年間の闘病の苦悩や絶望感を全く察しない、非常識もはなはだしい言葉だと言えるかもしれません。しかしこの言葉は、絶望的に見える境遇にあってもなおこの病人が心の内にともし続けていた望みを見届けるイエスさまの言葉でした。その望みがたとえどんなに小さくても、またたとえ心の隅におしやられていたとしても、イエスさまはそれを見ることができるし、それを知っていてくださるのです。絶望してしまう状況の中で、なお希望する勇気と信頼を見出そうとする主イエスのお言葉です。

 

しかし、病人は「はい、良くなりたいのです」とは答えませんでした。自分が良くなれないことの言い訳をしています。私は治りたいからここに38年間。ああ、それなのに周りの人は、私を押しのけて先に入り、さっさと治ってしまう。

「水が動く時、わたしを池の中に入れてくれる人がいない、他の人が先に降りていってしまう。だからわたしは良くなれない」と言うのです。

私たちも同じようなことがないでしょうか。イエスさまから問われているのに気付かず、良くなれない言い訳を考えてしまう。そして自分は価値のない者だ、良くなれなくて当然だと思い込もうとする。全く救いようがない状態なのかもしれません。このような否定的な人は救われる道がないというのが世の常識かもしれません。

 

でも、聖書ではそうではありません。この癒しの物語は、神さまの無条件な愛をよく表しています。この病人は、行いがほめられたのではないし、強い信仰を持っていたのでもない。まして、イエスさまを救い主だと理解していたわけでもありません。けれどもイエスさまはそんなことにはめげません。イエスさまには、病人に対して愛のまなざしがあるのです。私たちが横たわっているのを、慈しみ、長い間病気で苦労してきた人生を憐れまれます。そしてそれは、「良くなりたいか」と問いかける前から私たちに注がれています。イエスさまは私たちの返事にならない返事に最後まで耳を傾けてくださいます。私たちの飢え、渇きを理解し、そして言われます。「起き上がれ、床を担いで歩け」イエスさまの言葉で癒され、救われてしまうのです。

 

神さまの言葉は私たちの弱さを超えて、大きいということが明らかにされています。水も、池も、手助けしてくれる人も、先に降りていってしまう人も関係ないのです。イエスさまの口から癒しの言葉が出る時、癒しが実現するのです。

 

癒しの働きは、今でも常時続けられています。

イエスの癒しの言葉が今も生きて働いています。

天地創造の神は七日目に休まれました。しかし天地を支える働きは休むことなく続きます。

造られた人間を支えて、神は働き、み子イエスも共に働かれます。

 

福音書は、癒しの問題から安息日問題に移行します。

そこでは、安息日が悦びではなく恐れの時、してはならない日、拘束日のようです。

安息日の本質は何でしょうか。イエスはその本質を取り戻されます。